2017
04.13

すこし歪んだ月が春の夜空に浮かんでおります。

主張することもなく、自分で輝くこともなく太陽との角度によって、月は満ち欠けを繰り返しております。
我々が仰ぎ見る月は、一側面であり、月は裏側をけっして露わにすることはないのであります。

偽りの光、偽りの満ち欠け、昼間は存在を失い、太陽が沈んでから姿をあらわすお月様。だから美しいのかもしれませぬ。

この人は自宅でどのような会話をし、どのような食事をしているのか。職場ではどんな仕事をしているのか。友達は、親は、兄妹は。

けっして問いかけることはいたしませぬ。
問いかければ、確実に何かを失うことを本能的に察知しているからではありません。失われるのではなく、その反対、その人を正確に知り、理解するからなのであります。

理解してしまうことは恐ろしいことなのであります。
知ろうしてはなりません。分かろうとしてはいけませぬ。

満月が好き、十六夜が好き、いやいや十三夜だ。わたしは三日月。ぼくは刃月。けれど、十七夜の月こそミステリアスなのでございます。

そこにキミがいればいい。
たとえ偽りの姿だとしても、キミは私メにとって偽りではないのだから。
美しい旋律も、頬がとけるような美味しい美酒も、朝になると本当に美しかったのかどうかすらわからなくなります。
たしかに、この腕にいたはずなのに、時がたつとけむりのように消えているのであります。

土曜と日曜には神戸にいた。でもいまは茅ヶ崎。
当たり前のことなのに不思議でなりません。

などと月を仰ぐと思ってしまうのであります。

2017
04.12

春の嵐に、桜の花びらが舗道に散りこぼれている光景は壮絶であります。

登山で、苦しんで登頂した下山の下り坂のようであります。
苦労して貯めたお金をオネえさまのお店で浪費しているようでもございますです。

「散る」ことを結末と考えるのか、新しいスタートだと認識するのかは、散った直後の本人に答えを求めるのは難しいかもしれませぬ。

「あんなことをしなければ」と恋が散ってから後悔しても無駄であり、「こんなことをすれば良かった」と夢想してもせんなきことでございます。

始まりがあれば終わりを迎えるのは仕方ない運命なのでございます。
変転こそ人生であり運命であるわけでして、たとえば十傳スクールだとて例外ではございませぬ。
「初等科を開始すれば終わるのに五年はかかる」などと開講する際に、私メはいつも考えるのであります。

あと何クールできるのであろうかと。

出逢いがあり、共鳴があり、手を握り、kissを交わし、そして音楽を奏で、たとえ燃え上がっても散りゆく運命から逃れることはできませぬ。
せめて美しくありたいと数々の失敗の経験から、ダイヤモンドのエッセンスだけを抽出しようとたくらみ、最後の恋を飾ろうと思ったりもいたします。
が、それだとて気まぐれな運命の春の嵐にあえばどーなるか。

せめて、いまこの瞬間を充実させねばならないのであります。

そして、散ることで始まることもあるのでありますから、たとえば演奏会が終了し、「帰りにお茶でものもうか」なんてことは散らなければ始まらないことなのであります。

2017
04.10

雨でございました。
神戸のホテルで、十傳スクールの講義までの時間を、雨にけぶる街並みを眺めておりました。
窓の下は三宮の駅。みんな霞んでおります。

小雨と霧雨の微妙な降りかた…あの夜の出来事を想い出させるのでございます。
こんな羽毛のような雨の日でありました。
もっとも夜で、夜の光は雨に吸われ墨をながしたような暗さでありました。
「このくらいの降りなら、わたしもいらないわ、傘」
雨に濡れる気持ちよさを彼女も知っているのか、と見下ろしたら、闇より黒い瞳孔が、まっすぐに私メにあてられておりました。

が、それはすこし前の時間のことで、部屋で音楽を共有すると怯えた小動物のように変わり、「あいあい傘しようよ」。こんどは白い傘を開くのでありました。
やがて、彼女は雨を恐れながら、その根っこのところで雨を愛する女になるだろうと予感したことでございました。

「次に逢う約束しないのね」
「したい?」
「しないと怖いから」

雨の三宮駅の構内に電車が入り停車し、また走り去るという繰り返しのけしきを、無機質に見送っているのでありました。
指先を鼻元にあてましたが、彼女の匂いはございません。

さあ、講義だ。
ルームキイがポケットにあることを確認し、カーテンを閉じるのでありました。