2013
06.18

ありゃりゃ! あと4日で、十傳セミナーではありませぬか。
「オラはよぅ、英語の手相を訳したおんや」
などと得意になっておりましたが、テキストを作成せねばなりませんでした。

モリオカから戻るや、寝ぼけマナコをこすりつつ、手相第一回のテキスト作りに入っておるのであります。

モリオカに行った日の方位はけっして吉ではありませぬ。しかし「救道」の方位。
仕事の依頼などが舞い込み、「大丈夫か?」とは案じつつ、それでも占いという「我が道」の仕事でありますれば、すべて受け入れ、さらにテキスト作り。
易者冥利に尽きるとはこのことでありましょう。

とはいっても、スクールではなく、あくまでもセミナーでありまして、ワインやお料理も楽しむコンセプトでございます。
「これでは完全な講義用のテキストではないか…」
といささか心配なのであります。

けれどご遠方から来ていただく方が、じつに多いのでありますれば、ただバカ騒ぎするだけでは、申し訳ありませぬ。お酒が苦手なお方もおりましょうから、そこはシッカリとしなければ…。
と案じながらも、私メが真っ先に酩酊する危険性も大でございますです。

が、ヤレバ出来るわけでして、テキストも完成にちかく、すべて揃えば六冊の立派な手相教本となりそうな感じでございます。テキストは道中で読んでいただくこととし、セミナーにおいては、そのポイントをば語ろうかと考えておりますです。
ポイントとは、むろん色事のこと。ウヒヒの見方の秘訣でございますです。

どんなオヒャレをしたらいいのか。これについては明日考えますです。
思いきってノーパンで臨もうかとも…。

2013
06.17

冬のあいだ凍っていたことが嘘のように、湖畔にはマーガレットの花が群生しているのでございます。

花は乙であります。水があり、太陽があることで、美しく花が咲けるのでありますです。
それをハサミで摘むことは、ハサミは金行で、乙花にとっては官殺でありまして、官殺はお女性にとって男星を意味しますです。
つまり水と太陽があることが、乙花には、良い男が得られるという条件なのであります。

もしも、水が凍っていて、太陽も照りつけていなければ、ハサミ(男星)は、自分の魅力の芽を刈り取ってしまう悪い意味となるのでございますです。

かような視点で、早朝の湖畔を眺めているのでありました。
六月は午月でございまして、火局を成立しやすい月なのであります。
油断しますと巳午未、あるいは寅午戌が成立しやすく、財となる土が乾いてしまうのであございます。
ですから燥土ではなく己の湿土が必要でありましょう。
すると、乙己という、恋の配合となるのであります。

花は美しく咲けば、恋が財産にも、玉の輿運にもなるという一例となりましょうか。

それにしても季節と人間の運命とは、奇妙に一致するものであります。
「わたしを五万円で買ってください」
と図々しくも申された40代のお女性の命式を振り返りましたら、財の星が氷の下で、凍りついて役に立っていないのでありました。

見えるのに手に入れられない財の星。
そういう場合は、何を見ても「お金、お金」と頭の中はお金のことばかりなのであります。

財星は、官星を招きますのですが、なるほど男を見るとお金を考えてしまうものなのだと、妙に合点したのでありました。

「いいえ、わたしほどお金に淡白な女はいないわ」
と反論されても、それは凍った財が手に持てないからに過ぎないのであります。

四柱推命は、かくも残酷に、本人の本質の一面を照らしてしまうモノでございますです。

2013
06.16

祭りが人生の花としたら、実家の近くの夏祭りは、不発の人生のようでありました。

櫓で歌っている歌い手を見ている観客はわずかに五人。酔っ払いのジジイだけであります。

ああ、これがわが故郷の実像であったかと、まざまざと思い出した次第であります。

博多や大阪、京都、月島、神田と渡り歩いていて祭りはまさに街に咲く華でありました。威勢のいいヤクザやヤンキーねぇチャンが発狂していたので、つい我が郷里もかくあったかと想い出を作りなおしていましたが、健全どころか無人に等しいのでありますです。

精神患者の生涯の如くでありますです。
「死んだ方がいんでね」と本音を呟くと問題になる時節でありますから、言葉を曖昧にしますですが、
「もは来年から、廃止した方がいよ、こったな祭りは」と換置法を用いますです。

が、がですよ。
もしも、私メが旅人で、可愛い愛人などと同伴で、この寂しい祭りを見たならば、また別の気持ちがわいたのかもしれませぬ。

店じまいしかけた屋台で、綿あめなど買って、二人でこっちとあらちがわから食べあえば、「今夜は死に切れるね」とうっすらと笑えたかもしれませぬ。
「このキチガイ」
「あなたもね」と。

町内から締め出されて神社にたむろしている数人の「気」の異なるヤツらと同気して、それならばと同期の桜などをガナリ立てたいのでありました。

しかし、いささか酔った勢いで散歩した挙句に、この無残な神社に私メは一人で参ったのでありますです。

ふたたび、これが人生ならば…と易者の妄想に入るのでありました。
あるいは、これが案外、現実の人生かもしれませぬ。祭りがあるだけマシということもかんがえられますです。
祭りは過ぎてみて、はじめて祭りになるのかもしれませぬ。

18才にバントで郷里を出て、いま三塁あたりにいて、なかなかホームベースに帰られず、牽制球をおそれながら、うろちょろしている間抜けなランナーかもしれませんです。

このたびの帰郷は、誰にも逢わず、自分の内部に戻る意味をもっているような気がするのでありました。