2013
06.16

祭りが人生の花としたら、実家の近くの夏祭りは、不発の人生のようでありました。

櫓で歌っている歌い手を見ている観客はわずかに五人。酔っ払いのジジイだけであります。

ああ、これがわが故郷の実像であったかと、まざまざと思い出した次第であります。

博多や大阪、京都、月島、神田と渡り歩いていて祭りはまさに街に咲く華でありました。威勢のいいヤクザやヤンキーねぇチャンが発狂していたので、つい我が郷里もかくあったかと想い出を作りなおしていましたが、健全どころか無人に等しいのでありますです。

精神患者の生涯の如くでありますです。
「死んだ方がいんでね」と本音を呟くと問題になる時節でありますから、言葉を曖昧にしますですが、
「もは来年から、廃止した方がいよ、こったな祭りは」と換置法を用いますです。

が、がですよ。
もしも、私メが旅人で、可愛い愛人などと同伴で、この寂しい祭りを見たならば、また別の気持ちがわいたのかもしれませぬ。

店じまいしかけた屋台で、綿あめなど買って、二人でこっちとあらちがわから食べあえば、「今夜は死に切れるね」とうっすらと笑えたかもしれませぬ。
「このキチガイ」
「あなたもね」と。

町内から締め出されて神社にたむろしている数人の「気」の異なるヤツらと同気して、それならばと同期の桜などをガナリ立てたいのでありました。

しかし、いささか酔った勢いで散歩した挙句に、この無残な神社に私メは一人で参ったのでありますです。

ふたたび、これが人生ならば…と易者の妄想に入るのでありました。
あるいは、これが案外、現実の人生かもしれませぬ。祭りがあるだけマシということもかんがえられますです。
祭りは過ぎてみて、はじめて祭りになるのかもしれませぬ。

18才にバントで郷里を出て、いま三塁あたりにいて、なかなかホームベースに帰られず、牽制球をおそれながら、うろちょろしている間抜けなランナーかもしれませんです。

このたびの帰郷は、誰にも逢わず、自分の内部に戻る意味をもっているような気がするのでありました。