01.15
子供の頃は、この看板がホラーでありました。
その頃に較べれば、何億倍もの悪しきことをしているのに、
「何言ってやがる」
と小便をぶっかけたくなるのでありました。
疑問に思うことがございます。
切支丹弾圧で処刑された人々の信心であります。
ホントに神の再来とかを信じて殉教したのであろうか、それが分からないのでありました。
天草四郎だかが立てこもったと言われる原城に行ったとき、城に立てこもった人々の中に、切支丹ではない一般の民衆がいて、彼らは入信していないということで、切支丹から苛酷な弾圧を受けていたと知った時、殉教は後世の作り話ではないかと疑ったものでありました。
人間は、隠れて何かをするのを好む生き物であります。
けれど、イノチまで賭けようとはしないし、秘密のイタズラであることがホトンドではございませんでしょうか。
かつて学生運動が盛んだったころも、多くは流行の一つとして大学にこもってバリケードを作ったわけでして、それは青春の美しい一ページ。ファンタジーでございましたでしょう。
一部は山にアジトを作って、総括など大真面目だった人たちもおいででしたが。
信心しても、「殺すぞ!」と脅されれば、「信じたふりをしていただけですよ」と踏み絵などは朝飯前だったに違いございません。
が、支配者は、「許してはいかん。今後の見せしめとして拷問の上、処刑せよ」と命じたことは想像に難しくはございません。
後になってから信者が「あの方たちは死をも恐れずに殉教したのです」と物語を作ったのではないか。
「死後さばきに会う」
なかなかの名コピーであります。
このほかにも、パクりたくなるフレーズがシリーズであるわけでありまして、そこらへんが基督教の魅力でもありますです。
モラルに反することほど陶酔できることはございませぬ。
死後、「許さぬ」と神様に折檻され、磔にされるのでありましょーか。
「していません、していません」
と否定しても、
「思っただけで罪なのだ」
あの世の刑場に引きずられていく自分を想像し、ちょっとうっとりしてしまうのでありました。