2013
04.21

雨降りのモリオカはロシアのようであります。
花の季節はもう少し先。

休日だというのに、人通りが絶えておりますです。
恋人たちはどこにいるのでありましょうか。
「雨が降るから逢えないの、逢わないあなたは野暮な人~♪」
という歌が聞こえてきそうであります。
気温は2℃。

この小さな地方都市で、どうやって恋をしたのか、もう思いだけませぬ。
想い出の中では、もっと広い街だったのですが、歩けば10分ほどで繁華街を抜けてしまうほどの、こじんまりとした街なのであります。

老母の買い物の運転手なのでありました。

筋子とひき肉だけ。

そうしてふたたび帰路。

しょうじょう袴という山野草が、ガレージの脇に根づき、紫色の花弁を雨に濡らしているのでした。

ふと、甘いモノが食べたくなったのは、寒さのためでありましょう。
「おしるこやっているところがあるかな?」
と聞きましたが、
「ねな。全部、はぁ、つぶれんだおん」

街は道を拡張しましたが、古いモノは失われたようであります。
道は未知が語源と言う説もありますが、郊外のイオンへ向かうのに便利になっただけのようでもありますです。

ちいさな都市に二つもイオンがあるのでございます。
でも、今日の冷たい雨は外のパーキングから店内へと歩くことを考えただけで購入意欲が減退したはずであります。

部屋で、好きな相手といちゃつくか、相手のいない場合は、ミステリーでも読むのが適している雨でありますです。
私メは小屋から、古い詩集を引っ張りだして眺めておるのでありました。
この意味、分かりますですよね。

2013
04.20

二か月も時間をさかのぼったような季節の郷里に、あの世の花が咲き乱れているのでありました。

すべての黄色い花はあの世の花であります。

一億年前の恐竜時代にも、黄色い花は咲いていたのであろうか、などと哲学してみるのでありました。
その後、寒い時代が地球を覆い、恐竜は死滅し、やがて人類が主人公として登場したのでありますが、それから100万年。
恐竜時代が一日だとすれば、人類の時代は14分くらいと言われておりますです。

進化論が正しいのかどーかは疑問でありますけれど、サルから進化したとして、その進化と言うヤツはストップしてしまったような気がいたします。
そして、人類は人類の手で滅びようとしているのも、もはや空想のことではありますまい。

次に地球の主が何になるかは分かりませぬが、輪廻転生など信じるに足りないような気もいたしますです。

氷河期の厳寒期を種となって生き伸びて、花を咲かせ続ける植物が、なにもかも知っているようであります。
もしかすると植物が言葉を持たないのも、それは生き伸びる知恵かもしれませぬ。

「好きよ」
と発したところから、始まり、始まりがあれば終わりがあることを植物は何億年もかけて学んだとも考えられるのであります。

「いつまでも待っているよ」
と約束しても、「待っているよ」という言葉じたい、待てないかもしれない心の不安が招くことでありますから、誓っても誓っても、信じきることは難しいのであります。

「好きよ」
の言葉は、その裏に「○○さんより好き」と比較する心がありますから、いつかは「もう●●さんの方が好きなの」と離れていくだろう気持ちの不安定を無意識は予測しているのであります。

「好きよ」には「オレもさ」と答えなければいけない強制が含まれていることも辛いのでありますです。

同じ場所で、誰から評価されるのかされないのかも関係なく咲いているあの世の花も、やがては枯れて次の季節を迎えるのでありますが、「桜は哀れだよなぁ」
なんて思っているかもしれませぬ。

桜見物のために植林され、ライトアップの苦痛まで強いられつつ、人間に迎合しなくてはならないのでありますから。
「好きだといいなさい」
と善意の裏側ある鬼に脅されているようでございますです。

郷里はまだ半分は冬。
やっと春のきざしが生まれたばかり、人類の100万と何回目かの春でありますです。

2013
04.19

サクッと噛んだとたんに、忘れたことが時を超えて炙りだされてくる天ぷらでありました。
モリオカの東のはずれにある産直の傍らにある食堂でのことでありました。

天ぷらそばを注文したら、画像の素朴な天ぷら。
それが、ハコベの天ぷらだとは分かりませんでした。
「これは…?」
と尋ねたら、厨房のオバハンが、言ってはいけない、明かすと叱られるのではないかと言うような表情で、
「ハコベでがんす」
と答えたのでありました。
土の香りの春の味覚なのでありました。

店の下を流れるのは梁川。
九州の柳川ではありませんです。

「やながわ」という音の響きは、その九州の柳川にいっても、私の中ではモリオカの梁川とダブルのであります。

梁川はヤマメとイワナが釣れる川でありました。
まだ岡釣りの楽しみを知らなかった中学生の私メは一時期、激しく釣りに夢中になりまして、自転車で20キロもの道のりの、この梁川に通ったことがありますです。

とろとろと流れる渓流は健在でありましたが、もう釣り糸を投げる気持ちは失せておりますです。穂先から伝わる微妙な魚の手ごたえも忘れておりますです。
むっちりとした男根のようにふくれた魚の腹がにび色にくねりながら釣りあがる充実感も忘れておりますです。

梁川を蕎麦屋から見下ろすばかりでありました。

四月半ばだというのに、ときおり雪の舞う川べりには、しかし春のあかるさがあるのでありました。

「ハコベ」と言う響きも懐かしく、
「ハコベの天ぷらは初めてですよ」
とオバハンに笑顔を送った私メは、たしかに過去の野山を見ていたに違いありませぬ。

畑のハコベを取らないと野菜の種は撒けないのであります。
春はハコベをむしることからはじまるのであります。

ハコベの根は横に広がるので、むしる作業に苦労はいりません。
根の切れる音と土の匂いがよみがえるのでありました。

唐突に、自分だけの快楽のためだけの射精をしたくなったのは、とういう心の作用なのでありましょうか…。