2013
08.23

空に雲で蓋をされ、周りから蒸したように、本日の関東はヌタヌタに暑いのであります。
酸素が薄くなっているような気すらいたします。

なので、かき氷なのでありました。
電動かき氷気を、汗まみれになって小屋から引っ張り出し、ガリガリしたのでありました。

が、きめ細かな削り方では、溶ける速度の方がまさり、氷水と化してしまうのであります。

「それでか…!」
と先週の漁村で食った目の粗いかき氷を思い出したのでした。
氷の粒々が分かるほどの粗さでなければ、すぐに溶けてしまうのでございます。

シルキーのかき氷は、今夏に適さないのかもしれませぬ。

子供のころは、かき氷の出前があり、ちかくのシナ蕎麦屋がオハチに入れたかき氷を届けてくれたものでございます。
しかし、私メは、かき氷のシロップにまけて、たびたびおう吐したものでありました。

画像は東北型のヤツであります。
関西だと、シロップ上から注ぎますですが、東北はシロップは下。
まずは上の氷をすくって手を洗うのであります。

それから、おもむろにスプーンを抜き、慎重にシロップをかき混ぜるのでございます。

たのしみは、あとに取っておくのか、それとも始めに味わうのか。
東北と関西の違いが、ここにあるのかもしれませぬ。
あとで、楽しもうとしたときは手遅れというケースを、東北人はよく知っているのであります。

これはかき氷の話を通り越して、濁情のことでありますけれど。

しかし、それでも東北形式にこたわってみたのであります。

2013
08.21

よく行く書店のオヤジから電話があり、
「ねぇ、オノさん、映画に行く?」
と言われたのであります。
「一緒にですか…」
「違うわよ。チケットが余ってて」
ということなので自転車で書店へ。

つまりこういうことであるのであります。
映画を見ようと座席予約したところ、用事が出来たために行けなくなった。私メなら暇そうだから代わりに行くかもしれない。それで連絡した。

見ると、レイトショーであります。
映画のタイトルは「風立ぬ」

茅ヶ崎のサティにあるマイカルシネマまで車で出向きました。
ガラガラでございます。

でもタダの映画なので、だからといって何の感想も持ちませぬ。

終わったのは零時に15分ほど前。

面白かったといえば面白く、普通といえば普通でありました。
しかし、よくぞ作ったものだと、アニメ作りに感心いたしました。

唯一の欠点は、恋愛をかませたところでありましょうか。
戦闘機の設計に夢中な青年の物語でありまして、その中で友情などが展開されるのはイイとして、恋愛は物語自体を濁らせるのでありますです。

名作に共通するのはホモ的な要素であります。
古いお話て恐縮ですが、「あしたのジョー」しかり。「巨人の星」しかり。
男たちを美しく描くことで、男はその人物に憧れ、お女性もまたその登場人物に架空の恋心を持つのであります。

お女性を登場させる場合には、憧れの対象としてが限界でございましょう。

そのうえ、風立ぬでは、三回ほどキスシーンまであり、なんともヤバツないのでありました。

それ以外は、なかなかの出来。
タバコのシーンが多いと、世間から指摘されておるようでありますが、恋愛のシーンの方が問題でありますです。

翌日、本屋に行くと、「どーだった?」と聞かれましたから、「山のないところが良かったですよ」と答えおいたのでございます。

突然の映画は悪くはございませぬ。
50年も昔に、家族で急に「狼王ロボ」を見に行った時のことを思い出したのでありました。

 

2013
08.20

濃厚たるフェロモンの匂いを、お女性は自覚したことがあるでありましょうか。

待ち合わせ場所で濃密なまでの女の匂いをしたたらせていれば、いかに関係ないというような無表情を作っていたとしても、男にはナニを求めているのか一瞬にして分かってしまうのであります。

枯草のような、モロミのような、その匂いを果てさせるまで、精力の限りを尽くさねばならないと、心に誓うのでございますです。

45才くらいまで、お女性はその匂いを発散させるようであります。ちょっとした会話に刺激されてムワッと漂うこともあれば、抱きしめたとたんに髪も吐息も、その匂いに埋め尽くされる場合もございます。

「女のイヤはイイのうち」とされていますですが、この匂いが漂わなければね「イヤはやっぱりイヤ」と解釈した方がいいのでありますです。
かすかにでも匂いが漂ってはじめて「イヤ=イイ」となるのでありましょう。

男とお女性に、ですから言葉は不要なのでございます。
会話の内容はどうでもよく、鼓膜を震わせる肉声を楽しんでいるのでありましょう。

匂いは音楽と同様に、人間の内面を直撃するテレパシーに近いものがございます。

一方で、文章はなかなかそうは参りませぬ。
言葉を尽くせば尽くすだけ、感覚の差を思い知らされるのであります。

メールがコレに当たるのであります。
メールによって喧嘩をし、傷つけあい、果ては別れるというケースが急増している原因は、文章は心を濡らすことがきわめて難しいからでございましょう。

「メールは簡潔にね」
「わかった」
と約束したのに、
「ハッキリさせたい性分ですから」という枕詞で長文メールが届いたことがございます。
「じゃあ、直接に言ってほしいな」
と目を通す前に返したところ、「直接だと言い負かされるから」とメールが瞬時に戻ってきたのでありました。

仕方なしに長文メールを読むのでありますが、彼女の気持ちが伝わる前に、よくぞ、ここまで書いたものだとあきれ果てるほどの、しつこさで埋められていたのでございました。
「だから言ったのに」
と、結局は最後まで読むこともせず、気持ちが音を立てて引いていくのでありました。

メールで気持ちや思いは伝わりませぬ。
メールは要件を確認しあうツールとして徹底させて間違いはありませぬ。

いや、思いをメールで伝えたくなったら、そのときはすでに愛は滅びつつあるのかもしれませぬ。

「愛なんてあったの?」
いいえ、愛の存在は、匂いによってしか確かめることはできないのであります。
愛というものは形ではなく、状態だからであります。個体ではなく流動するものだからであります。

「屁理屈ばかりね」
と、お女性はやはりメールを打ち続け、逃げ場をFacebookに求めたのでありました。
真実、真実と繰り返しメールで叫んでいたのに、最後はバーチャル。

もしかすると求めていたのはバーチャル内の真実だったのかもしれませぬ。

「まだ匂う?」
「うん、もうしてないよ」
「頑張ったから?」
「ヤリすぎたかもね」
匂いの世界から帰還したとき、二人に会話が戻るのでありますです。