2019
02.11

訃報がございまして、若い頃に付き合っていた男が亡くなったとのこと。

苦手な男でありまして、
「死神」
と、密かに名付けておりました。
付き合うとロクなことが起きず、濡れ衣を着せられたり、それほど飲まないのに泥酔し恥ずかしい事を仕出かしたり。
それよりも金運が沈むのでありました。彼といてギャンブルに勝ったためしがございませぬ。
奴に悪意があったのではなく、推命で言えば貧乏神の相性でございましょう。

くたばったからとて葬儀に出るつもりもなく、訃報を教えてくれた相手にメールを返すこともいたしませぬ。
悲しくも嬉しくもないのであります。

「ああ、そーか」
ただこれだけ。

自分もいつかは死ぬのであろうな…と、ぼんやりと思考するうちに、死がリアルに想起されるのでありました。

死は毎日、どこかで発生しております。
かならず起こり得る事態なのに、死について、まったく知らん顔をして日々を過ごしているのはどーいうわけでありましょうか。

死と同じく、スケベも同様にタブー視の風潮が広がっております。
スケベがなければ、生も死もございませんのに。

深夜、タワーマンを眺めながら、いまごろ、何体の男女が合しているのだろうと、壁がスケルトンなら…と思いを馳せることがございます。

いつ、どこで、どのようにして死ぬのだろうか。
病死、事故死、自殺、戦死、他殺、刑死、自然死。

日々の食物はなにかの死体でありますから、他者の死がなければ命をつなぐことができませぬ。が、それも永久ではなく、死を避けることはできませぬ。
この世に、生命体が誕生して、おびただしいほどの死があるというのに、そして、死ねば、この世で為したすべてが無に帰るというのに、喜怒哀楽、損得に夢中になっておるわけであります。

昔から、いまの現実はすべて思い出であり、ふと気がつくといまわの際の望んでいるのではないかと空想しておりました。

死ぬほどの苦しみと語られますが、死ぬ時の苦しみとは、痛いのか、それとも未知への不安か、あるいは死体が人々に晒される屈辱なのか。
そろそろ、死の準備を始めなければ取り返しのつかないことになりそーであります。