2019
11.11

東海道線で音楽を聴きながら、
「いつ死ねばイイんだ?」
と、秋空に尋ねたりいたしました。

「もう死にます」
「生きていたくない」
「わたしの一生はどーなるの」

秋になると深い悩みの相談者がおいでになります。
心理カウンセラーなら、いや占い師でも、そして、つい以前の私メでも、効果的な慰めの言葉をかけたりしたてありましょう。

が、年老いてきますと、
「それは通用しませんよ」
と、突き放すような語り口になるのであります。

死は誰にでもやってまいります。
それか早いか遅いかの違いはあっても、時という流れの、ワンフレーズが一生であり、終わりはかならずやってくるのであります。

「今年死んでもかまわない。明日でも、いや、電車に揺られている今でも、まったく惜しくはないなぁ」
過ぎ去る景色、向かい来る秋の景色。

悩みも苦しみも、生きようとするから生じるものだという当たり前のことが、リアルに体内に染みてくるのでございます。

「それは通用しない。死にたければ死んだらどーですか。残念ながら占いは生きる欲望のためにあります」

恋やお金や病気や様々な悩みは、
「不安から逃げ出したい」
ことで共通しております。

そして、そのことを占いという非常識な秘術で解決させることが、私メの稼業でありますが、ひとつの不安が取り除かれると、「希望」という病魔が忍び込みますです。希望は絶望の始まりであります。ふたたび、こんどはさらに深い悩みという不安に憑りつかれるのであります。

「たったいま死んでも後悔はない」と一瞬、研ぎ澄まされた気持ちに洗浄されますと、この世のカラクリを透視してしまうのであります。
一瞬でありますから、「次は茅ヶ崎です」の車内アナウンスで現実に引き戻されますが、「いまの感覚は仙人的かもしれない」とこめかみからヘッドホーンをはずし、断易や四柱推命、奇門遁甲の奥に通じる、そのこの世のカラクリをさらにのぞき込もうとして、後ろの乗客に背をおされ我に返るのでありました。