2022
03.21

見知らぬ老夫婦が住んでいたはずの家は廃屋になっておりました。
垣根に椿が咲いていたのでございます。

亡くなったか施設にはいったのでありましょー。
ベランダには物干し竿がかかっておりました。

なんとなく、しやわせを感じましたです。

生きるということは、池に放り投げた石のよーにも思えます。
水面に落下するまでの時間をも人生というのではないかと。

ポチャンと水に落ちれば、小さな石も大きな石も、しばらくは波紋を広げますが、やがて何もなかったよーに静かな湖面にかえるのであります。

歴史上の人物として幾人か、我々は知っておりますが、しかし、あれは小説家がえがいた絵空事。

数年前に、四柱推命の講義で、坂本龍馬の生年月日を扱いましたが、ドラマで演じられているよーな豪胆な命式ではございませんでした。
海外に夢を抱くよーな生年月日ではないのでした。
むしろ佐久間象山の命式の方が、豪胆で海外渡航の夢の翼を広げ得る命式なのでありました。

椿にかこまれた小さな廃屋も、きっと取り壊され、別の建物がたち、
「ここに何があったんだっけ…?」
と記憶がさだかでなくなり、ついには忘れ去られるのでございます。

さて、どーする。
モリオカ行きを思案しているのであります。
16日の地震で東北新幹線がぶっ壊れてしまい、全線が開通するのは来月の20日あたりとか。
ウクライナの孤児たちを、私メという廃屋が世話をしても悪くないと、どす黒い案を抱いておるのであります。具体的にモリオカの実家を、そういう視点で見ないと何とも言えません。そのためのモリオカでございますです。
モリオカの屋敷には老母しか住んでおらず、空き地にログハウスでも設置して利用すれば、20人ぐらいは楽しく生活できそうなはずなのであります。

あたかも廃屋に咲く花々になりましょう。

2022
03.20

スクールのない日曜日は貴重であります。
休日は外に出ても、たぶん人が多いとおもうので、極力、家の中で過ごそうと思っております。
とくに三連休で、お彼岸ですから。

雲を仰ぎながら、死んだ人を思い出すのは悪くない、休日の過ごし方なのでございます。
むかしの集合写真を眺めては、
「こいつも死んだ、これも死んだ、あっ、こっちは事故で死んだ奴だ」
数えていると、知り合いの半分くらいはこの世の人ではございません。

死に方もいろいろで、若い頃に死んだ知り合いは、事故でなければ自殺。

おそらく知らされていないだけで、生きていると思っているだけで、死んだ方々は、もっとたくさんいるはずであります。

そーして思うのです。

自分は、自分のいなくなった世界を見ているのだ、と。
鏡に映らない限り、自分を見ることはできませんです。

ビデオカメラでみる自分の不思議な事。
他人には、自分がこんなふうに見えているのか…。
怖ろしくもあるのであります。

お女性とお酒を飲んだりしている時、その相手である自分が空洞に感じる瞬間がございます。
自分という段ボールの箱の穴の中から、お女性を見つめ、声を聞いているよーな。

たまに気持ちが悪くなり、意識が遠のくことがございます。
そのとき、耳が遠のき、相手の声がプールに潜った時にきく鐘の音のように聞き取りにくくなるのであります。また視界も、カメラのレンズを絞るよーに、狭くなり、さいごには暗くなり、そのときには意識がございません。
「ああ、自分は死ぬところなのかもしれない」
臨死体験ぽいのであります。

そのときは、自分の肉体が「袋」なのだと感じます。

魂が飛び出すような体験まではしておりません。
ただ長い夢を見るのでございます。

意識が戻ると、倒れていたのは、この世の時間にすれば、ほんの一分にも満たないのですが、その夢は長く、意識の時間では丸一日ほど。死んでいった懐かしい面々に囲まれたりしていることがホトンドなのであります。みな笑顔なのでございます。

もう、明るい未来はなく、滅亡は直前までひたひたと迫っております。
疫病で死ぬか、投下された核で死ぬか、地震などの天災で死ぬのか。
かならず死が待っておるのであります。
そして、すべては望まない死に方でありましょう。自殺以外は。

お女性のグラスに氷とウィスキーを注ぎたしながら、
「こんやは、殺してくれないか」
明かり消し蝋燭に灯をともすのでありました。

2022
03.19

十傳スクールの講義の前に、珈琲をいれるのが、このところの習慣になっております。
講義の直前は、それがリモートでも、とても緊張するのであります。

コンビニやカフェで珈琲を求めるのも良いのですが、マインでいれた珈琲は香りがよわいように感じるのでございます。
むかしからある喫茶店はなくなっているし、また存在していても、気のせいか、妙に威張っているように感じられてしまいまして、とすると自分でいれる道しかないのであります。

濃い目の酸っぱいのが気に入っております。
たまに、そんな望んだ味加減にいれられた朝は、
「今日の講義は上手く行きそうだ」
すこし安心するのでございます。

歴代の師匠たちから受け継いだ数々の技術に工夫をこらし、それを受講者のみなさまに公開し、さに発展してもらうのが私メの仕事だと、この頃になって分かってまいりました。
その工夫とは、お客様の鑑定をとおして会得した、いくつかでございます。
理論の占いではなく、実占での占いであります。
むろん理論的にも矛盾を孕んでいてはいけません。

世の中は判断するいくつかのベースがございます。
統計的なことを基準にして判断したり、科学的なことや、情報を判断の土台にする方々もいるでしょー。心理学的に分析するお方もいます。
それらの人たちにとって、
「へぇー、占いですか~」
程度の分野かも知れません。
しかし、私メは、いつのまにやら占いを判断の最重要な基本に置くよーになっていますです。
そう、いつの間にかです。

でも、
「占いでイイおん」
と、諦めるというか、腹をくくるというか、ハズれたとしても仕方なしと覚悟を決めてしまうと、へんにカンが冴えてくるのでございます。
「不運だと落ち込んでいるよーだけど、その生き方を貫いていれば、きっと時代とリンクする時が来るぞ」
みたいな予感を、たとえばお客様から感じ取ったりいたしますです。

てなことを考えつつ珈琲を喫するうちに、
「いけね、あと五分で講義が始まる…!」
講義の前の珈琲タイムはじつに貴重なのでございますです。