2015
07.07

黒アゲハの抜け殻は、そのまま玄関先にへばりついているのでございます。

ふたりで暮らした部屋を訪れたかのような気持ちに近いものがございます。
「懐かしいなぁ」という想いに耽るのか「淋しいなぁ」と落涙するのか「愚かしい日々だった」と唾棄したくなるかはそれぞれでございましょう。
いやいや「ありがとう」と感謝することもありましょう。

その感情の色分けは、その想い出で異なるのは当然で、もしも、そのあと恋が成就したあとで2人そろって再訪したとして、
「あのときはしやわせだったね」と男が呟いたのに対しお女性が「最悪だったわよ」と否定することもあるのであります。

なにを申したいかと言いますと、占いは統計学ではありえないというこてなのであります。
とくに気学に凝り固まっているお方に多いのは「気学は統計学だから」というセリフでございます。

まさかそんなはずはございませぬ。
気学が誕生して百年足らず。
そんな短い期間で統計をとれるのでありましょうか。

いや、統計学という分野が、いかに複雑かをご存知なのでありましょうか。
おそらく統計学ではなく、自分のお粗末な統計でしかありますまい。
あるいは、
統計学だといえば、占いが社会性のあるものだと受け止めてくれるかもしれないという気持ちなのかもしれませぬ。
心理占星術とか一時的に流行りましたが、そういう程度のものでありましょう。

占いは統計学でも私的統計でもなく、これは推理なのであります。
占いの諸原則に自分の人生経験をからませ、こういう場合は、ふたりで過ごした部屋を見て「虚しい」だろうと落ち込むはずだと推理したり、他の人は「よーし、やるぞ」と発奮するはずだと推理するものであります。
通変という占い用語こそ、占いの真髄に通じますです。
通変とは臨機応変とでも訳しましょうか。

成功したことも、失敗した人生も、嬉しいことも哀しいことも、すべての経験は占いにおいて生きる糧となるのでございます。

黒アゲハの抜け殻を眺め、みなさまはド~感じるでありましょうか。

私メは「ぶっ潰したい!」という思いにかられるのでございました。