2011
10.04

たとえ、それが偽りの恋だったとしても、美しい想い出となる種子が潜んでいるのであります。

いや、疑似恋愛というものが、ほんとうに、偽りの恋だと、誰がきめるのでありましょうか。

自分自身にすら分からないのかもしれません。

偽りの恋だと決め込むことで、その恋の魔力から逃れる道をつくっておいただけなのかもしれないのでございます。

こういう恋をしたい、ああいうのが本当の恋だというように、理想の恋があって、その理想の恋からはずれたケースの関係を偽りの恋だと否定的に受け止めているだけの話かもしれませぬ。

標高2000M以上の高山に咲いていた花が、おもわぬ寒波でこのように美しくフリーズされていたのを思い出し、それと疑似恋愛とはほとんど関わりないはずなのに、そういうことを連想してしまったのでありました。

いやおうもなく吹きすさぶ風と雪とによって、秋景色は、たちまちのうちに荒涼し、それはまるで突然の裏切りにであったような心の風景にも似ていないこともありません。

が、いま、こういう風景を見ていますと、なぜか懐かしいのであります。

のどかで平和な風景がしおれてしまうほど、荒涼たる景色が、心を誘うのでありました。

占いでいけば、同じ生年月日でも平地と高山生まれとでは、一か月ほどの季節をずらして判断することが大切であることを痛感させられますです。とくに四柱推命の徴候用神法という季節を重視した判断では、この見極めがイノチでありましょう。

恋にも春の恋、夏の恋、秋の恋、冬の恋があるのでありましょう。
男と女がであったとき、どんな季節の恋になるのかが、運命として投げつけられるのだとおったりするのでありますです。

帰りの新幹線の車窓からながれる外の模様をうち眺めつつ、心は枯野をかけめぐることを禁じえないのでありました。

悪い女の魅力にハマったように、カラダのなかはいまだに吹雪の悲鳴がなりつづけているのでありました。

恋の終わりは、憎悪や怒り、あるいは絶望と執念だったとしても、やがては、静かに思いだされるものではないでしょうか。
ときおり、はげしい感情の嵐がおこったとしても。