2013
02.18

「うぐいす泣かせたこともある」とは、名言でありまして、年配のお女性を眺めていると、ふと、若かりし頃のお顔がのぞくことがあるのであります。

ああ、このお女性は、なかなかエロくて、男どもからのお誘いが連夜のようにあったのであろうなぁ、としみじみと感慨するのでございます。

好きな和歌に、
「雪のうちに春はきにけり鶯のこほれる涙いまや解くらむ」というヤツがございますです。
プレイボーイの在原業平と駆け落ちした姫君、高子の詠んだ歌でありますです。
ここでいう鶯は、自分のことなのでありましょう。
美鈴川のほとりで追手に捕まり、高子は二条天皇の妃となり、のちの陽成院を産むのであります。

が、皮肉にも、業平は、彼女の護衛の役を命じられ、近くにいても声もかけらけませぬ。

後年になって詠んだ和歌が有名な、
「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは」
高子の背後には、真っ赤な紅葉を描いた屏風があったのでありましょう。
「憶えているか、あの頃を。美鈴川に絵のような紅の紅葉が燃えていたよなぁ」
処女の証の赤い紅葉とをかけているのでありましょうが、それはさておきです。
いまは人生の春が過ぎ紅葉の秋だということもかけているのでありましょうが、それもさておきです。

男はいつも過去の郷愁から離れられないモノ。

高子の心がどうあったかわかりませぬ。
歴史には、高子の乱行が記されているばかり。

子の陽成院はグレて、はやくに天皇の地位をおわれるのであります。
「筑波嶺みねより落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
母親の、業平への思いを詠んだという解釈は、私メが男だからかもしれませんですね。

話が逸れたというより、はじめっからひん曲がりましたが、「うぐいす泣かせたこともある」…つまり「これでも男を夢中にさせたこともあるのよ」と強気だった飲み友達が、明日、乳がんの全摘手術なのであります。

「あのさ、お願いがあるんだけど」
と深夜に連絡があったのは先週でありました。
「…さいごの男になって欲しいんだけど、やっぱ」

しかし、事情と都合が重なり、その願いは果たされぬまま、彼女は本日の午前中に入院したのでありますです。
「女、やめないからね」
と強がりのメールが、ぽとりと届いたのでございます。

「おっぱい敏感な方なの?」
「すごく…」
「残念だね」
「残念。こわいし悔しいし」

最後の男ではなく、最初の男になるのかもしれませぬが、まずは先にあの世に旅立つオッパイに冥福をたむけるのでありました。

2013
02.17

「マリちゃんとどーだった?」
なんて、不意ふちをくらって、酒にむせる演技などをするのでありました。
「やったんでしょ?」
お女性はニタニタと笑うのでありますです。

「いちど飲んだかな?」
と相手の出方を読もうとするのでありますが、
「とぼけたって無駄よ。だって聞いたもの、本人から」

男同士では、若いころ「あいつとヤッた」とか自慢げに宣言したりすることはございました。
が、その宣言はたいていはホラでありまして、「よーし、それならオレも!」とごり押ししてみて、それが嘘だったことが分かったりするものであります。
が、「ほんとに嘘か、ホントにあいつとはヤッてないのだな」
としつこいほど念を押したりして、だんだんと男の話が本当なのか、はたまたお女性の否定を信用すべきものなのか分からなくなったりして自滅するものでございました。

どっちでもイイのですが、男の体験話は信用には値しませんです。

ところが、お女性というヤツは、友達同士でたとえば、
「あなたにだけ話すけど、オノさんとヤリまくったことがあるのよ」
などとリアルに打ち明けるというか、愉しむ習性があるようであります。
「それじゃぁ、わたしとマリちゃんは」
「さお姉妹!」

こうして、さお姉妹関係を自覚すると、心が快楽のみに切り替わるようなのでありますです。
「ヤッてよ」
とせがむのでありますです。
「クロスしてよ、マリにヤッたように、わたしにも」
「どこまで喋りあったんだよ」

「クロス、クロス」とせがむお女性をベッドに残して一休み。

「この世の見納めにクロス殺法をおみせしよう」
とおマリさんに、眠狂四郎を気取って、おもむろに始めたものでありました。
全身を波打たせるまでものの一分もかかりませぬ。
つづけざまに、さらに秘剣ダブルJのポーズ…。

「あっ、マリちゃんのこと考えているな」
と、のばした手のひらのなかでの私メの変化を、かってに解釈するようなのでございますです。

お女性の嫉妬というものを死ぬほど体験している私メに、は、このゲームはなかなか慣れることはないかもしれず、けれど白昼に、ふとざわざわとした異常な興奮に見舞われることもないとはいえませぬ。

「ナッツにどこまで喋ったんだよ」
と、さお姉妹のマリさんに尋ねたくなったりいたしますです。

さて、内容と画像がかみ合わないかもしれませんですね。

けれど、私メにはピッタリとするのであります。

お女性の友情というものはエロいものでありますです。
秘密をネタに楽しめる習性を羨むばかりでありますです。
そして、そのご友情を破壊したくもなる残酷が心に芽生えたりいたすのであります。
森山良子が「ざわわ」と歌うたびに「戦争をしろ!」と叫びたくなるように。

2013
02.16

家が解体されておりました。
しやわせを求めて新築するのか、それとも売り払ったのか。

「ただいま!」
とは帰られなくなったのは事実でありましょう。

線路沿いの家だったから、まだ暗い早朝から、深夜まで、走りすぎる電車の振動で、がたがた揺れたりしていたことでありましょう。

私メも中学の頃まで古い家に住んでおりまして、冬ともなると、明かりとりの小窓から、ちらちらと雪が舞い込んでくるのでありました。
その小窓からは雪の野が見渡せ、電信柱の街灯の下で、雪がさかんに降っているのでありましたなぁ。
そして冷え込んだ朝には、窓ガラス一面が、氷の花模様で覆われるのでした。

オナニーを覚えたあたりに、新築の本家に引っ越してから、しばらく、その古い家の話題があがり、風か吹くと天井から砂がこぼれてきた話題や、床板の隙間から夏草が顔を出したことだの、裏の戸が分厚い氷で開かなくなったことや、薪ストーブでセーターを焦がしたことなど、話は止まらないのでありました。やがて、ため息をして、みな黙るのでした。

二月の、ちょうど今頃になると、煙突が煤でつまり、毛のついた長い針金で掃除をするのでした。注意しないと、タールが手について、一週間は汚れがとれなくなるのでありました。

貧しさはけっして幸せではないけれど、しやわせというものは豊かさとは比例しないようであります。

秋に冬に備えて、家族で森で焚き付けにする杉の葉を炭すごで五つほど拾いに出かけ、薪を家の周りにオーバーコートのように高く積み上げるのであります。ひと冬の暖をとるためであります。
その薪がなくなり、家の破れた壁から、外が見えるようになると春の到来なのであります。

もしかすると、このように季節といっしょに生きていくことが大事だったのかもしれませぬ。

いま恋愛は存在するのでしょうか。
いや、くさるほどの恋も濁情もあることは分かっておりますです。

が、ロマンという恥ずかしいような恋愛という意味であります。

そんなものはじつは存在しなかったというならば、それはそれでイイのであり、また「オメだけが失ったんだよ」といわれてもイイでしょう。

貧しさからは貧しい恋しか生まれないんだ、もうその話題には触れるな!と、殺風景な季節のない図書館のような場所で、ムキになって叫んでいるような気がいたしますです。

豊かになったと思いこんでいるだけで、ほんとうは以前よりずっと苦しく貧しく不幸へと転落しているとも思えますです。