2012
02.20

おスペインに10日ばかり行っていたら、イヌのロメオがひどく淋しがりになっていたのであります。

酒を買い求めにコートをはおっただけで、悲しげに鼻を鳴らすのであります。
そして帰ってくると、千日も会わなかったようにジャレつき、片時も離れまいとてもいうように膝から降りないのてあります。

ためしに、苦手だったはずの煙草の煙を吹きかけても、耐えるのであります。

これがお女性ならば、うへぇっとばかり辟易して冷淡な態度をして距離を置くのでありますが、ロメオは別であります。

「イヌ以下ですか、私の存在は?」
なんて野暮なことをいわれた記憶がはいずりだすのでありますが、
そこは「まあまあ」というわけであります。

イヌとお女性では、あまりに違いすぎるのであります。

イヌはイヌ、お女性はお女性。

だいいちヘンタイではありませぬゆえ、イヌとセックスはできませぬ。

まだロメオの目の色は、いつ置いていかれるのではないかという不信感が刷かれておりますです。

でも、帰国してしばらくたちましたから、このようにくつろぐようにはなっておりますです。

一方のジョルノは変化なし。
私メかいようがいるまいが、食うものさえあればそれでよし、といった塩梅であります。

それはそれで味気なく、
「もう、オノさんとつきあってもメリットないから」
と、とっとと出ていったお女性もいたのであったなぁと、しみじみ思い出すのでありました。

まだ春浅く、散歩すると指がかじかみますが、ガラス越しの春光はポカポカとイヌの背を温めるようであります。

「しばらく、どこにもいかないよ」
と声をかけますと、
「嘘つけ」
とこちらをぎょろり。

ああ、そうであった。
震災の被害者の一周忌でモリオカにいくんだっけ、と思い出ますと、
「ほらな」
というようにグレた姿勢で私メを見上げるのでありました。

2012
02.19

いわゆるハイボールってことなんでしょうけれど、日本酒の炭酸割りをしてみたのであります。

これが以外にイケるのであります。
日本酒独特の匂いが抜けて、じつに爽やかな口当たり。
安酒でもOKであります。

だいたい9度くらいが程よい割り加減。
つまり酒と炭酸水を3:1の割合でありまょうか。

「キスの上手な人と飲んでいるみたい」
「まだまだ分かってないよ」
「どうしてそんな意地悪いうの?」
「どぶろくの舌触りが本当のキスの味だから」

ハッと気づきました。
マッコリに炭酸水をいれてはどーか。
朝鮮から日本に送られる段階で、マッコリはミクロフィルターか熱処理して醗酵を止められるのであります。
本場で飲むマッコリは舌がちりちりするほどの醗酵酒。
それに近くなるのではないか…。

…いやダメでありましょうと自己否定。
マッコリはもともとアルコール度数が低いわけで、それを炭酸水で割ってしまうと旨さが逃げてしまいます。

やはりマッコリはいつものとおりビールで割るのがおススメであります。

いずれにせよ、炭酸水でわった日本酒のほろ酔い気分は、やがて到来する花見の季節を彷彿させるものがございます。

夜半に目覚め、いつ終わるともわからないほどの大量の小便には困るのでありますが。

2012
02.18

貝のワイン蒸しを楽しんでいたのでありました。
ところが、貝のなかに、ヤドカリが紛れ込んでおりまして、拾い上げてみました画像がコレであります。

ヤドカリにとっては迷惑なことでありましたでしょう。

日ごろ、漁師たちを眺めつつ、自分がアサリにならないで良かったと神に感謝したかどうかは分かりませんが、食卓にのることはあるまいと無関心でいたはずであります。

ところが、運命がどのように作用したのか、漁師のあさった網にかかり、あれよあれよという間に、かような最期になったというわけであります。

ボールにとりだされ塩水をはられ、さかんに塩を吹きだしているアサリを横目に、それでもヤドカリは「おいらはお前たちとは違うもんね。きっと助かるもんね」と安心していたことでありましょう。

ワインをそそがれ「あっちちち」となってはじめて「何故だ!」と慌てたことでありましょう。

震災から一年が過ぎようとしておりますです。

いろいろと英雄的な行動をとり、戻らぬ人々を思い出しては、惜しむ話も耳にいたします。
さいごまで避難誘導をしていた人、家に残された老人を助けに戻った人、防波堤の水門を閉じた人…。
みんな自分が死ぬとは思ってもみなかったはずであります。

いえいえ津波だけではありませぬ。
夕食はカレーにしてくれと言葉をのこして通勤途中で交通事故で亡くなる人だっているわけであります。

知り合いにも、アメリカ出張のために妻に成田で見送られ、「土産を買ってくるから」と旅立った、その一週間後に、妻が急死されたという人もおりますです。

どこでどういう運命が待ちうけているのか。
大昔から、人々は運命にもてあそばれているのであります。

どんなに便利な世の中になっても、ずっと昔の故人の言葉が心を打つのですから、人間の幸せというものは変わっておらぬようでもあります。

運命が変化するときは、ちいさな警告をならすのも、占いの仕事をしてみて気がついたひとつであります。
多くの人たちが見過ごしてきた、科学的でも統計的でもない、理屈では解けない警告であります。

もしかするとヤドカリの死も、私メへの警告なのかもしれない、いや警告そのものなのだと、ふと立ち止まって危険をチェックしているのでありました。