07.14
犬とともに生活してきましたが、いったい何匹の犬たちの死を見てきたのか。
が、この犬、名はローリーだったと思います。
コリー犬でありました。
生まれて初めて、身内の死を目の当たりにしたのが、このローリーの死でございました。
初冬の、霜の降りた寒い朝に、犬小屋で死んでいたのであります。
「すこし苦しんだよーだ」
祖父もまだ生きていて、ローリーの食いしばった歯を開いて見せたのであります。
それから、祖父と父と三人で、自転車の荷台に括りつけたローリーを、ちかくの丘に埋めに行ったのであります。
スコップがこすれる音や、そのスコップで土を掘る、草の根の切れる音を思い出します。
埋め終わってから、祖父と父は無言でタバコを吸っておりました。
犬は、みずからの死をもって、死という現実を飼い主に教えてくれるのでありましょーか。
犬の死ほどの慟哭はございませんです。
旧約聖書にある、バベルの塔を、神が破壊し、「人間を各地にバラバラにした」ことと、「バラバラの言語」を用いさせたことを、ながいこと不思議に思っておりました。
が、このたびの疫病で、密集を避ける意味が分かりました。
しかし、別々の言語を使わせる意味は疑問のまま残っておりましたです。
人を、犬ほどには愛せない自分のなかに、その答えがあるのかもしれませんです。
言葉が、人を拒否させ、恨み恨ませる元凶ではないかと。
食欲と睡眠欲と性欲の三大本能を満たすことが幸せであり、そのほかの金銭欲や名声欲などは、むしろ不幸の入り口になるのかもしれませんです。そして、それら不幸の入り口への切符が、言語では。
犬が、腹が減ったのか、眠いのか、色気づいたのかは、言葉が通じなくても察することが出来るのであります。鳴き声だけで分かったりいたしますです。
なんてことを考えながら、「開運EIBS」の作製をしていたのでありました。