2011
05.07

ロメオと近所を散歩したのでした。

もう春から初夏へといそぐ季節の勢いを止めることはできません。さまざまな花がさまざまな色彩をそこかしこにばらまいて、町全体が花園のようであります。

人間を花に見立てれば、自分はどの花なのだろうかと考えたりいたします。
薔薇であってほしいのに、じつは野道に咲くたんぽぽだったり、白いユリだと思い込んでいたのが、じっさいは海水にも強い水仙の花だったり…。そういう植物に置き換えて運命を考えるのが、東洋系の占術の原点なのであります。

たとえば、「木」というタイプの人がおりますが、春生まれの「木」と冬生まれの「木」では、その用い方がことなります。
春生まれの「木」ならば、これから勢いをまして大木となるでありましょう。その木の下で人々を憩わせることができます。

しかし、冬生まれの「木」は枯木であります。魂は根に帰り、枝には葉もなにもありません。木陰で人々を守ることも憩わせることも無理。ではどんな役に立つのか。
薪であります。みずからを燃やし、人々に暖をとらせるという役目を担っているのであります。

ほほぅ、梅の実でありますよ。
まだ北の地方では梅の花が咲いたばかりだというのに、茅ヶ崎では梅の実がこんなに大きく育っています。

いつ人生の成熟期を迎えるのかという問題も人それぞれでございます。

AKBのように10代で成熟期を迎える場合もありますし、北条早雲のように50代から目覚ましく活躍する人もあるのであります。

「オレはまだまだこれからだ」
と力んだところで運命ではすでに盛隆期が過ぎてしまっていてはどうにもなりません。

反対に、
「もうオレはダメなのだ」
とクサっていたとしても、北国の花々のように運がいっせいに開花する運命もあるのであります。

それを占いで解明するのでありますが、占わなくたって、自分を冷徹に見つめ直すことで判断することが可能なのであります。
自分という人間は、どの花に該当し、その花は春咲く花なのか、夏咲く花なのか。

花の時期を過ぎてしまった人生でも、どういうことに使えるのかと考えれば、楽しい日々を満喫できるはずであります。
ただし、「こうありたい」という希望と、「こうなのだ」という現実問題は同じではないところに運命の辛さがあるのは、これはイタ仕方ないことなのでしょうねぇ。