2021
04.02

事務所の窓を開け放って仕事をしておりました。

ふと、足元を見下ろしましたら、桜の花びらが、ひとひら舞い落ちておりました。

どこから運ばれてきたのか、窓の外には桜の木がございません。
去年まであった桜木は切り倒されているのであります。

「幸運とはこういうモノであろーか」
しばし哲学者となって、その桃色を見つめていたのであります。

志賀直哉の「城崎にて」の小説をふと思い出しました。
河原で何の気なしに抛った石が、トカゲだったかに当たり死なせてしまったという話で、そこから「死」を思う主人公を取り上げたつまらない私小説でございます。

でも、その逆もあるのかと考えたのであります。
幸運を求めようと必死になっても、幸運は指を通り過ぎるよーに逃げてしまうのでありますが、幸運を別に意識しないときに、どこからともなく幸運が訪れるのかもしれません。

とすると、努力とかは何なのでありましょうか。
「努力をしなければいけない」
こう教えられてきたのでありますが、
「努力しなければ手に出来ない」
この考え方は、思い上がりに過ぎないのではないかと。

努力が報われない場合は、それを「徒労」と申しますです。

多くは、徒労に終わり、幸運とは努力とは関係のないところに存在するのでは。

「運命」
の言葉が登場するよーでもあります。

たった桜の花びら一枚で、妙に、
「嬉しい」
感動はどーかしているのかもしれません。
「茶柱が立った」
「四葉のクローバーを見つけた」
そそんな他愛もない偶然に違いございません。

しかし、易者らしく、この偶然を幸運の予兆ととらえますと、
「たしかに…」
そのあと、三つばかり良い事が到来してのでございますです。

不思議な現象であります。