03.20
夜の9時になると、従弟から電話が来るのであります。先ほどもございました。
震災で亡くしたお嫁さんの火葬が本日だったのです。
ひとしきり泣くのであります。
きっと外で、二人の子供に聞かれないようにして泣いているんだとおもいます。
世間では「立ち直れない人はいない」と断言する人がたくさんいます。「立ち直ろうとしたら、いつだって立ち直れるんだ」と強い口調で励ます人がおります。
でも、そうでありましょうか?
悲しみから立ち直ることのできるる人と、そうでない人がいます。
いいえ、立ち直ってはいけないというか、そのまま倒れていていいからと思わずおおいかぶさって温めなければならない人がおります。
従弟がその状態であります。従弟の親父がその状態なのです。叔母もそうらしいです。
「立ち直れるはずだ。立ち直れないなんていうな!」なんて、とても言えませんです。他人事ならば言えるのかもしれませんね。新聞やTVで見聞きします。励ますつもりなのかもれませんけれど、それは想像力も思いやりもない冷たい言葉なのであります。
「立ち上がるな、そのままでいろ。あとはオレがなんとかする」
それが優しさというものではないかと思うのであります。
自分でいうのもなんですが、葬式とかそういう場所では私はなぜか頼られる損な性分なのであります。
「おかしな人だおんな」
と老母もいつも首を傾げるのであります。「あんだの顔をみてしまうと我慢できなくなって泣いてしまうんだおんや」と。
その代わり、祝い事のときは「オメの顔を見てるとイライラする」と亡父に言われたものであります。
しかし、従弟の泣き場所が私しかないのであれば、いつでも泣け泣けと言いたいのであります。
本日は火葬。
本葬は交通機関が正常に戻ってから…四月の下旬になるのでありましょう。
「立ちなおれねべおん」
火葬にたちあった老母も妹もそう漏らしておりました。
「しかたねべさ、仲のよかった二人だおん、しかたねんだ」
愛するということは、いずれ死という絶望の到来を回避することは不可能だということなのかもしれませんです。