2012
09.28

東京駅の待合室は活気にみちた静けさが漂っているのであります。

行く人、帰る人が交差するのが駅なのでありますが、午前の東京駅は、みな、どこかへ旅立つ人のようでありますです。

人、それぞれ、何かの目的があって、「行く」という行動は行為であって目的ではありますまい。

私メは、毎年、10月いっぱいは油断の出来ない一ヶ月なのであります。
人間関係のゴタゴタに見舞われピンチに陥るのが常であります。

が、そのピンチというか、この月の不運は、やがて幸運に変換されることで一致していることも、経験的になんとなく体得しているので、この月は、大変なことの発生を、どこかで期待しているところもございますです。

「さようならの10月」とでもタイトルをつけたいくらいであります。

大凶は吉に通じると申しますでしょう。

誰かに嫌われ、暴言で罵れ、悲しみと絶望に落ち込んだとき、その悲しみと絶望にこそ、再起の芽が出ているのでありますです。

救いの手はとんでもない方角から差し出されるものであります。
自分の思い描いている未来の姿ではございません。

「もう生きていく力もないし、誰のことも信用できない」
と、自殺しそうなお女性が、一ヶ月後には羨ましいほどの男を見つけて、結婚することも現実では多々あるのであります。

秋は、はじまったばかりでありますが、その秋の中には、すでに、次の季節の兆しを感じられるように、悲しみは、運命が別の喜びを与えてくれる駅なのかもしれませんです。

気休めの言葉ではありませぬ。
自分の考えている未来にならないと嘆くのは仕方ありませんですが、悲しい出来事が起こったならば、その悲しみを「もう終わったことだよね」と受け止めるしかないのであります。

そう、悲しみは、結果であります。いまさら、どうしようもないわけであります。

一人で人生の駅にたたずむのも悪くはございますまい。