2012
10.31

春先に、あんなにたくさん花が咲いていたのに、台風だの強風に落花してしまい、いちじはどーなるかと案じていましたけれど、柚子は、それでも例年くらいの数の実が色づいております。

まるで恋のようでございます。
最後に結ばれた男女が、幸せかと問われれば、すなおにうなづけるとは限りませんが…。

延命が、すこしく幸せとは限らないように。

でも、残った花が結実し、秋日に色づく眺めは、ちと格別であります。
人間の寿命は、どのくらいが適切なのかと考えたりいたします。

先日、中学の仲間が、
「はやく癌になってしまいたい」
と申しておりました。
なぜと聞きますと、
「死ねるからだ」
と即答。

なるほど、私メも老人年金などの受給より、ここぞというときに楽に一発で死ねる薬を渡された方が、嬉しいと、日ごろから思う一人なのであります。

100年も昔ならば、老人は、長老として敬意を表されておりましたが、いまでは景観を害するほどの多さで生息しておりますです。
やはり40代くらいが適切な寿命なのかもしれませぬ。

麗しい恋が出来なくなってからが、人生は長いのだと当たり前のように思っていましたが、それは誤りかもしれませんですね。
子供を産み、育てる能力が失われると、他の動物たちは自然に滅してしまうことと比較すると、人間というものは、ちと長生きのし過ぎのように感じられますです。

四柱推命において、死期は三度到来し、たいていは第二死期で死んでいくのでありますが、このままでは第三死期まで延命してしまいそうでありますです。

病院で、病の重さを自慢しあい「あなたなんて幸せな方よ。私は生死をさまよったんだから」とだけは、せめてなりたくないモノであります。
山岡鉄舟のように、結跏趺坐のまま死を迎えるほどではないにしても。

シクラメンが次の季節の到来を告げておりますです。

まぁ、これからは若い奴らに、なにかプラスになることを残したいものだ願ってはおるのでありますが、私メに出来ることといえば、占いくらいのものでございます。

お話が年寄り臭くなりましたですね。
気にいったトワレがなくなったせいもあるのでしょうか。

2012
10.30

あっという間の10月でありました。
そして11月。

私メは11月から12月が季節の中で、もっとも好きなのであります。
枯れ果てた陰鬱な雰囲気がゾクゾクした気分に火を付けるのであります。

今回の11月は十傳セミナーの予定や、断易と四柱推命の教室の募集も考えておりますから、それだけでも充実した期間ではないかと、いまから期待している次第。

モリオカで英気を養ってきましたから、たいがいのことでは参りませぬ。
己の方向を邁進いたしたく存じますです。

皆様にも運気のプレゼント? をしたいと考えておりますです。
そして十傳クラブの会員の方々への年末恒例の「幸せカード」のデザインも決まりましてございますです。

まずは、その前に11月のボイドタイムをば。

2012年10/30(火)06h03m in牡牛 ~11/01(木)03h41m
2012年11/02(金)18h23m in双子 ~  /03(土)16h44m
2012年11/04(日)17h38m in蟹  ~  /06(火)04h40m
2012年11/08(木)00h28m in獅子 ~         13h36m
2012年11/10(土)09h29m in乙女 ~         18h36m
2012年11/12(月)14h15m in天秤 ~         20h11m
2012年11/14(水)19h38m in蠍  ~         19h53m
2012年11/16(金)18h46m in射手 ~         19h37m
2012年11/18(日)14h57m in山羊 ~         21h11m
2012年11/20(火)23h34m in水瓶 ~  /21(水)01h56m
2012年11/22(木)15h33m in魚  ~  /23(金)10h13m
2012年11/24(土)10h35m in牡羊 ~  /25(日)21h19m
2012年11/27(火)09h57m in牡牛 ~  /28(水)09h59m
2012年11/29(木)10h04m in双子 ~  /30(金)22h55m
2012年12/02(日)15h55m in蟹  ~  /03(月)10h58m

てな具合であります。

2012
10.29

モリオカから北に50キロ。
八幡平の中腹に、かつて鉱山町として栄えたゴーストタウンが秋風になぶられているのであります。

軍艦島と同様に心の落ち着く一帯なのでありました。

誰にも知られぬまま終わりを告げた関係のようでもあります。
腕の中でなんども快楽にふるえ、おびただしく体液を交換しながら、まいかい若さをはぎ取るような交わりをくりかえしつつ、ただ別れの日と、相手の心におののく関係が、ふと途切れたまま、気付くと数年が経過している。そのような心の廃墟を、すみずみまで見せられているような安らかな風景なのであります。

美しい濁情だったのか、肉の欲求だったのか、愛したのか愛されたのかすら、いまとなっては定かではなく、出会いと別れの間に繰り広げられた暴淫暴色の日々を思い出そうにも思い出せず、顔を上げると、そこには無数の窓がならび、そのひとつひとつの窓の内側にも、いぜんはそれぞれの濁情が存在したのかと、心は不思議な気持ちにながれていくのでございますです。

心にも復興再生の力はありましょう。
けれども、廃墟のままにうち捨てていたい廃墟があるのも事実なのでございます。

「いまモリオカなんだよね」
「ブログで知ってた。だから電話したの」
「物理的にあえないからな」
「そうね、物理的に」

彼女の最後の会話を思い出したのでありました。
「わたし、ダメなの。食事のお金をぜんぶ払ってもらわないとダメなの。好きじゃなくなるの」

勝手なことをホザいてやがると口の中で言葉をころし、山手線の巣鴨で彼女が降りるまで、なにごともなかったような世間話をしながら、その最後の言葉が、このお女性のどこから湧いてきたのかを考えていたのであります。
答えなど見つかるわけもなく、「寒いでしょう」という深夜の電話を受けたのでありました。

声が妙に響いて聞こえることから推測すると、ご亭主の目を盗み、トイレからかけているのかも知れないのでありました。

「迷惑だった?」
「いささか…」

廃墟になりきっていない関係は、どこか醜さが混じっているものであります。
濁情とは、その醜さの美しさにあるともいえましょうか。
とすれば、廃墟の美しさは、過去のものとして分類してしまう、拒絶という冷酷さなのかもしれませんです。