2022
11.30
今年の冬は雪が多いのか。
占えばイイのでしょーが、占う気持ちはございません。
11月の最終日に、北の各地から雪の便りがございまして、モリオカから舞い戻ったばかりなのに、
「どっかに雪を見に行きたい~」
の衝動がヒリヒリしておるのであります。
「オノは、なじょしてコロナに罹らねのだ?」
モリオカでひそかに集まり酒を酌み交わした連中が全員、
「感染してしまったでゃ」
のメール。
しかし、私メ一人だけ陰性なのであります。
そーいえば小学五年の夏、モリオカでは赤痢が大流行し、その時も、クラスでうつらなかったのは私メだけでありました。
楽しみにしていた臨海学校が中止となったのが残念だったことを憶えております。
「呪いでもしてたのか?」
なんてメールも。
ここで考えるのであります。
「健康体であることは、なにかをせよということかな」と。
何かというものがあれば、四柱推命の外伝、数理術のセミナーでしょーか。
これを天が求めていることであろーか…などとオカルト的に思ったりして、いや、それにしても危機一髪でございました。
画期的な占いであることは確かではあります。
学んだ日から使えるのですから。
しかも、「相性の悪いカップル」を救う考え方が、「じゃじゃじゃじゃ」であり、そういう観点から言えば、どーして今まで数理術が眠っていたかが「謎」でございます。
受講者も増えまして、「そろそろイイかな」という段階であります。
キムラ満夫の旅も来年まで我慢し、疫病に感染しなかった僥倖を活用するつもりであります。
ああ、もうすぐ本格的な冬でありますね。
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2022
11.29
以前の受講生からの卦であります。
わざわざ遠方から質問事項をもって有料で質問をする方もおります関係上、そーでない質問は軽く流すことにしております。
左の質問は後者であります。
軽く受け流したあと、「まてよ」と引っかかったりいたします。
『知り合いの財運を占す』ですから応爻用神にすればよく、応爻は空亡の丑の兄弟。旺相しています。卦は六冲卦に化す。
しかも貧乏星を強める午の父母が化出。ダメ。
これでイイのでありますが、
数日しても、なにやら消化不足なのであります。
元受講生が、知り合いの財運を占う動機は、某占い師の「大儲けする」という判断であります。
とすると、「某占い師の判断は正しいか」
これを占うのがスジでございます。
となると、父母が用神。
二爻に伏している巳の父母。
応爻も午父母が化出されています。
が、この巳も午も力なく、月墓日墓。
その占いは、
「あてにならない」
ことになります。
応爻は、その占いに自信をもって貧乏街道をまっしぐらであることを、化出の午の父母が応爻の兄弟を回頭の生としてあらわしているのでございます。
さらには元受講生の世爻も空亡。六冲卦に化すので、お知り合いとの関係も壊れることになるのであります。
この用神の取り方が、じつは断易で見落としがち。
情報に左右されて「富士山の噴火はあるか」などと官鬼用神として占いますが、まずは、占う時に、その情報は正しいのか、を用神を父母ととって占うべきなのであります。
情報というのは、つねに貧乏星の兄弟を生じますし、いつでも健康を意味する子孫を剋します。
つまり、情報を信じすぎ鵜呑みにすると貧乏になることは、世の中を眺めると容易に納得できます。
そして、ワクチン接種が大事だなどと言われて、軽々しく接種すると、逆に健康を害してしまうというわけであります。
このことは、身に染み込ませて覚えておくと良いでしょう。
断易はただ卦として読むのではなく、社会に対応させて解読することがポイントであります。
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2022
11.28
モリオカに滞在していますと、特に過去の事ばかりが頭に浮かぶのであります。
東京にいたとしても、同じでしょーが、とくにモリオカはそーなのであります。
この建物の一階に存在していた飲み屋に、役10年間通いましたです。
しかし、それほど過去の事ではなく、つい20年前から10年間。
実家で、夜の定刻になると、体がムズムズして、
「出かけてくる」
「どこさ行くえん?」
の老母の声に、「どこでもイイ」と言い捨て、水に飢えた動物のように町に向かうのでした。
そしてグテングテンになるまで泥酔し、2時ころまでカウンターに根をはやすのでありました。
マミーを誘い、別の店に繰り出すこともしばしば。
マミーの口の悪さが災いし、客足が途絶え、ついに廃業。
「ハゲちゃん」とか「うぁー、短足が見えました」とか。
東京から移住した順子というお女性に対しては、気取るな!という意味を込めてか、「ズン子」とあだ名したり、デカいお女性には「ジャンボ」
これでは客が居つくはずがありません。
しかし、常連がおりました。
ひと癖もあるお女性たちであります。
軽い恋愛戯れもいたしましたです。たのしい偽の恋でございます。
しかし、私メにとっては貴重な店でありました。
無くなってから、どの店に行っても「ここではない」感が強く、ついには夜の町に足を向けないよーになりました。
ふと、性欲の退化した、奇妙な動悸に襲われます。寂しさと呼ぶには、もう少し生臭い胸苦しさでございます。
電話する気もないのに、そこの常連客のダイヤルを探してみたりするのでありました。
「会ったところで」
なのでございます。死んでいるかもしれないし、病気かも。
いやいや、すでにお女性ではなく、人間に進化しているに違いないのてあります。
「人間に用はない」
波止場となるような店を求めつつ、過ぎ去った声ばかりに耳を澄ますのでありました。
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