2015
01.30

「なぜ日本はアメリカの肩を持つのか。広島、長崎に原爆を投下した敵国なのに」
というイスラム国のご意見はもっともなものでありますでしょう。

その国にとっつかまっているジャーナリストの鼻筋がひん曲がっていることに易者である私メは着目いたしたいのでございますです。

鼻筋が曲がっているお方は、自分の身をあえて危険にさらすような仕儀をいたしたがるのが特徴であります。
拙著、「東洋観相秘占」にも書いておりますが、私メの学生時代の担任が15歳だったかに出願兵として兵隊になり、特攻隊員となったとかでありますが、彼の鼻柱も歪んでいたのであります。

では、なぜ無謀な行動に出るのか。
それは母親などの愛情を振り向かせる無意識があるからではあるまいかと思うのでございます。
「そんな危険な戦地にいないで!」
と愛する者に言わせたいからではないか。

それにしても喧嘩もしたことのないエリート官僚たちが、どんなに知恵を絞ったところで、この問題は解決できますまい。
在日のイスラエルのヤツを拘束し、「おい、こいつを助けたくば、おぬしたちが二億ドルをイスラム国に払うのじゃ」というやり方もございますです。
許し難き卑劣な暴挙などと感情論を発しても無駄。
味方など、じつはどこにもいないのであります。
自分がシッカリしなければいけませぬ。

ここは南北チョーセンや中国、アメリカを睨みつけるうえでも意地をみせるチャンスかもしれませんです。

イスラム国は、敵の同盟の絆を危うくするために、人質解放において必ずや依怙贔屓する手法を見せるのでありましょう。
それが戦いというものなのでございますです。

いまこそ覇道学という運命学の根本知識が求められているような気がいたしますですよ。

2015
01.28

ニンフォなんとかいう映画のセリフらしいのであります。

愛で起きる問題が百個あるから愛はいらないという意味ならば、これはちと違うような気もいたしますです。
愛とは、そもそもそういうものでありまして、愚かしい問題の数々に濁されるから濁情の悦びとあいなるのでございます。
大人の男女の我慢比べといえば分かりやすいかもでありますね。

我慢できずにぶっちぎれて電話やメールで悲鳴じみた非難の怒号を上げたらゲームセット。
が、それでも溺れてしまうことがございます。

断易で男女の占いを見たとき、応爻の妻財、これはお女性でありますが、その妻財が日晨などの墓に入りますと、逃げ出そうにも逃げ出せない愉悦のトリコとなり、いくら世爻の男が生じても、相生の力が効かないのであります。
卦のどこかに応爻の妻財と合する官鬼がいれば、そのお女性は合する男に惹き寄せられるという愛欲の順位でございます。

好きだというだけでは、好きだという方が利用されるのが世の中の真相であります。「わたしがこんなに尽くしているのだから、あなたも愛してくれなければならない」と権利を求められるのは、この常識にそえば筋違いなのでありましょう。

ズルズルと愛欲に足をとられて何年も何年も男とのセフレ関係から脱出できないお女性を数えたら、この世に相当の数でございましょう。
そのお女性が愛欲から抜け出せるのは、権威、金銭、もしくはパワーのある男との出会いしかないのでございましょうか。
そしてまた濁情に悶絶する繰り返し。

占いのなかでも、断易はとても人間臭いというか生々しいところがありまして、じつに面白いのでありますです。

2015
01.26

はじめて東京のお女性を抱いたのはいつのことでしたか…。
地方出身の男にとって都会のお女性と交わることは大きな夢なのでありました。
「ヤッたぞ!」
と飛び上るほど嬉しいものなのであります。

が、失望したのは、東京のお女性も嫉妬するのか…この不思議さでありました。
もっとクールでさばけたものかと思いきや、ウヘッと放屁をして逃げ出したいほどの粘着性だったことを記憶しておりますです。
たまたま彼女がそうだったわけではなく、その後の何人もでありました。

郷里の岩手山より富士山だと勇んで登ったら、富士山は砂礫の山であり、遠くからは美人だけれど心はヒドイお女性のようでありました。

嫉妬心には驚いたものの、しかしやはり都会のお女性でありまして、どことなく洗練はされておるのでございます。
むろんそうではないお女性も多々見られはいたしますけれど。

では郷里のお女性はいかがかと申しましても、それは千差万別であることは勿論なのであります。けれど共通するものがございます。

なかなかの乱れっぷり。
おとなしそうでいて、いちどそうなると遠吠えのようなお声で快楽を告げるのでありますです。
「こうさねば、東京の女の人に負げるおん」とでもいうようにでございます。

二つのコニーデ型火山を眺めつつ、どちらもイイのであったなぁと思い出だしてはニタリ。

色情人相占いは、こういう地方性も踏まえて考慮することが大切でありましょう。どこで生まれ育ったか。太陽の光をさんさんと浴びて育ったのか、それとも一年の半分は曇天だったのか。
陰毛の毛質が同じであつたも、それぞれに異なった判断をしなければ本質的な部分を見落とすのであります。

色情は、その人の幸不幸に直接的に影響いたします。
スケベさを恥とするのか、魅力とするのか、そういうことなのであります。

ふるさとの山はありがたきかなと啄木は読みましたが、死んだ伯母の病院のある渋民村、それは啄木の郷里でありますが、そこに立つと、ふるさとの山というのは岩手山ではなく、じつは姫神山なのだと感じるのでございます。

色情に支配されながら、色情とは別のところに運命の契りがあるように。