2019
12.30

断易において世爻とは、自分自身を差すのは常識以前であります。

自分の仕事は。
自分の恋愛は。
自分の運勢は。

すべて世爻を重視し、その他の爻が、世爻にどのように絡むのかをつつき詰めるのであります。

これは、お客さんを前に占う場合も、易者は世爻を見て、お客さんの運命を解読することになりますです。

同じ卜易でも、タロットなどでは、カードの山をお客さんに半分とってもらう共同作業をいたしますが、断易は違います。
易者はお客さんになり替わってサイ目を読むのであります。

易者自身がお客さんになり替わるのでありますから、よく話を聞き、気持ちを理解し、共鳴する必要がございます。たとえ、気に入らないお客さんだろうと、そういう好き嫌いの感情を排除しなければなりません。

暴力団がお客さんになったら、易者は暴力団のその人にならねばなりません。男の易者でも、お女性がお客さんになったなら、そのお女性になり替わらなければなりません。

無我の意識とは、まさにそーいうものでございます。

「バカなお客だった」
などとお客さんのことを語るよーでは、まだまだ世爻になり切っていない証拠であります。

断易とはモラルだの正義だの法律とは、立ち位置が異なるもので、お客さんの運勢を解読し、より効率の良い方向へと向かわせるものであります。

そーしてお客さん以上にお客さんになり替わった時、断易の神様は、手に取るよーに見える卦を提出いたします。

膝の悪いお方には二爻に官鬼を。長年勤めている職場を去る時には火水未済などの最終の卦を。子供を求めながら子の出来ないお方には、六合卦でも子孫を潰す卦を。

すべて、そこに自分はなく、お客さんになり替わった世爻があるばかりなのであります。

と、エラソーに語りましたが、鷲尾先生、これでよろしいのでありましょーか。