2012
08.20

34度という猛暑の今日、八百屋の店先で梨が目にとまりました。

暑さのために気づかないだけで、秋はどうやら、そこまで来ているようであります。
梨をかじると果汁が口から飛び跳ねました。
おもいがけないほどの、みずみずしさでございます。

この水分はもちろん大地からなのでしょうが、なんとも果物の不思議なことか。
それが体内に沁みわたっていくのでございます。
大地の水分が、梨という果実を通して、甘みを帯びて、私メの体内に。
そして翌朝はオシッコとなって出ていってしまうのでございましょう。

無駄ともいえる自然の巡廻を考えたとき、そこに哲学めいた何かがスパークするのでしょうか。

しかし、梨は皮をむかれて、そこに並んでいるだけでありました。
秋の香りを濃密にただよわせながら。

「去年も飲んだね、この梨の味を」
「一年もたっちゃたんだね」
ラブホのソファーに並んで、梨味の缶チューハイを、それぞれのグラスにつぎながら語ったことは、あれは何年前のことでありましたでしょう。
コンビニに偽りの梨のチューハイが並ぶたびに思ったりするのでありました。

四季を経験した男女は、クサビのようなもので結ばれるようであります。
別れても、ふたたび連絡して、関係が戻る傾向が強いのであります。

いけない、別れなければいけない。
決心するのですが、夏の終わりの風に吹かれると妙に恋しくなるのであります。
そうして気づくと、五年が経過していたり…。

梨は、その夏の終わりと、秋のはじまりを結んでくれる恋の味がするのでありました。

2012
08.19

5月だったかに髪を切ったまでは良かったのでありますが、それが伸びまして、悲しいことに髪がまとまらないのであります。

いつのまにか天然パーマが激しくなっており、つねに驚いたように髪が立ちっぱなしなのでございます。

以前はまっすぐな髪でして、一定まで伸びますと、自然にわけ目が付いたのでありました。
それがいつの間にやら、天然パーマ。
雨の日などは、お釈迦様の頭みたいにクリクリに丸まるのであります。
でなければ御一新で官軍がかぶっていた赤毛みたいな感じであります。
とにかくまとまらないのでございますです。

そこで、画像の帽子をかぶることにいたしました。

帽子+サングラス+ひげ=不審尋問。
これが待ちかまえていることは占うまでもございません。

あと半年も待てば、ふたたび結うことができるまで髪が伸びることでありましょう。

ハゲるよりはましだと、自分に言い聞かせるのでございます。

それにしても精の無駄遣いは、こんご健康問題になって跳ね返ってきそうであります。
髪は心臓と目と結ばれていると東洋医術では言われておりますです。
ほれほれ、先日の老眼といい、このちぢれ毛といい、心の臓も弱まってきているとみて間違いはござるまい。
もう騎上位のみを受け付けることにいたしますです。

それだって大変なのでありますですよ。
腕を伸ばし、後ろからピッとひろげたりするサービスも必要でありますれば。

いやだいやだ、清楚な生活を送りたいと思っているのに…。

2012
08.18

執念で岩手山の山頂をきわめたのでございます。

このたびの登山はバテましてございます。
最初は雨でして二合目付近から登山者がみな降りてくるのであります。

が、山の天気は10時にならないとわかりませぬ。
雨をよけるために、がれ場をさけて密林のルートを選びましてそうろう。

すると四合目あたりから日が差し始めたのでございます。
かわりに大量の汗。
汗腺が開きっぱなしになり、汗がだくだくと流れ出すのであります。

体力をいちじるしく消費してしまい、六合目では軽い高山病に。
このままだと下山する体力があるかどーか。

しかし、今死ぬのと、ジジイになって癌で死ぬのと、どちらが幸せなのかという山登りが陥りやすい死生観にとらわれ、いっぽいっぽ、おのれを励まし、ダマしつつ、ついには山頂にたどり着いたのでありました。

画像はガスにつつまれていますが、気まぐれに雲が切れ、数秒間だけ、バカに明るい陽光が思わぬ景色をダイナミックに見せてくれるのでありました。

八合目の山小屋のオヤジはカップヌードルの容器に熱湯を注いでくれながら「今日は五組しか登っていないなぁ」と語るのでありました。
カップヌードルとコンビニのおにぎりを胃におさめると、不思議に体力が戻りましたから、しぼるほどの汗のシャツを脱いで、新しい下着に着替えたのでございます。

画像は八合目からの眺望であります。

ときどき、ダ、ダダダダッ、ダーンと音が聞こえるのは、演習場からの訓練の銃声であります。

ふるえる膝頭をさすりつつ下山。

私メの夏は、こうして終わりを告げようとしているのでございます。

疲労困憊で、2リットル以上の水を飲みながらの登山でありましたが、なぐさめは、つかの間の夏に咲く高山植物でありました。

ふだんは目にもとめない可憐な花を見いるのは、いちじるしい疲労の証左でありましたでしょう。
つかれると眼球の動きも鈍くなり、そのような花を眺めてしまうものでございます。

斜面にへばりついたまま、その花々を、この世の最後の見納めにするのもまたイイのかなぁとも思うのでありました。

いままで気づかなかった、お女性のやさしい声に、いまさらのように気づくようなものであります。

傷つき絶望した時にしか感じることのできないお女性のやさしさ。

ああ、おまえはこういうことを伝えたかったんだね。
取り返しのつかないほど時間が経ってしまってから、はじめてわかる言葉の真意が、ほとんど朦朧とした脳髄をふるわしてくれるのでございます。

いくどとなく尻もちをつきながら、がれ場を下山するのでありました。
まるで大雨に打たれたように汗でぐっしょりになるほど濡れた髪の毛に、アブがまつわりつくのでございます。
それは、下界に戻ったことをしらせる、なまぐさい証でございした。