2012
08.16

低気圧の接近で、岩手県と秋田県の境付近は、雨。
おもいだしたように雨脚が強まり、かと思うと、カッと日差しが照りつけるのでありますが、本日の登山は取りやめにして正解のようでありました。

このトンネルの向こうは行きどまり。
未来のない人生のようで、それはそれで落ち着くのであります。

地図を眺めますと、行きどまりの場所というものは、めったにお目にかかることはできません。
どこかの道とつながっておりまして、道があれば進むことになり、気持ちを休めることができないのであります。

道が途絶えることもまた風情のあるものでございますです。

Iフォーンの電波は届かず、携帯電話のアンテナが、かろうじて一本、おや二本と落ち着きなくさまようほどの奥深い場所なのでありました。

山奥から温泉のお湯が滝となって集まった湖が、深い緑色の水となって、誰に見られることもなく秋を待っているようでありました。

かような場所に一週間も滞在できるのであろうかと、考えると気が遠くなるのでございます。
アイデンティティは通用しないかもしれませぬ。

主体的に自分を活かす何かをしようとしても、見つけることはできますまい。
明るいうちに夕食の支度をし、日が暮れれば、燃料を大切にするために照明をおとして眠ることだけ。
雨が降れば、星空もなく、雨漏りの心配や、場合によっては土砂崩れに備えなけれはならないのでしょう。

自分が自分であるために、という歌がそらぞらしく感じるかもしれません。

濃密な愛欲すら、その気分にひたれるかどうか。
なにしろ濡れたカラダを清めるシャワーもなければトイレもありませぬ。
手っ取り早くすませるだけの行為となることでありましょう。

天気はどーなるのか。
恋の行方や、金銭的なことを占うことも必要ではなくなり、雨はいつ止むのかという原始的な不安が、切実な問題としてフォーカスされ、忘れていた占いの原点を思い出すのでございます。

山歩きをあきらめ、今日という日をいかにすごしたらいいのか、まさにアイデンティティをうしなった一日になりそうであります。

なにをするのかではなく、自分は何を求められているのか。
使命というだいそれたものではなくて。

市内に近づくにつれ、山霧が空へと吸われていくのであります。
まずは空腹を満たさなければなりません。