2013
06.25
06.25
息をのむほどの美しい聖女が存在するものであります。
人種を問わずたしかに存在するのでございます。
その前では、ならず者も品性下劣な男も、平伏してしまうのであります。触れることさえはばかれるのでありますです。
いや、どのお女性も聖女の瞬間があったのかもしれませぬ。
その聖女の時代は、かならずしも、しやわせではなかったのではないでしょうか。
美しいお女性の境遇が、案外に無残であるように。
男に大切に扱われるために、神様が、お女性を聖女に仕立てているとしか思えないのであります。
しやわせになればなるほど、人生が固まるほどに、聖女は崩れることもまた事実なのであります。
恋愛には不幸が必要かもしれませぬ。
相手が不幸であれば、恋は上手くいくということも、濁情を裏側から覗いてみて、法則のひとつとして否定することはできますまい。
不幸な相手が、しやわせになると魅力が失せるわけでして、それは聖女の飾りを脱ぎ去ったということにもなるようであります。
どの部分から、ながめせしまになるのでありましょうか。
首筋なのかお腹なのか、それとも背中か。
「脱ぐよりも服を着る時って恥ずかしい」
と言えなくなるのはいつからなのか。
温泉で他のお女性がいそいそと隅に固まらなくなるのはいつの時からなのか。
男から乱暴に愛撫されるのはいつからか。
昨日、カラスと戯れていたとき、ギプスをした女の子が「すごいですね」と語りかけてくれたのでありました。
「捻挫?」と聞きましたら、
「はいねんざです」と答え、眼の奥で私メの何かと同調したように思えました。
これから濁情の年齢へと向かう女の子と、濁情から卒業しかけている初老の男の、濁情をはさんでの共鳴だったかもしれませんです。