2019
04.08

今日は4月8日。お釈迦様の誕生日。

年寄りたちに誘われて、お寺に参りました。

このお寺は、お酒などを無料で振る舞うので、雨が上がるのを待って、うきうきと向かったのでございます。
甘茶などそこそこにいたしまして、境内の裏に回りますと、すでに老人たちが囲んでおりました。

もう来年には、この世におらない方々だと、人相以前に見受けられるお方も、きたるべき未来を知らず、にこやかにめされておるのでした。

ときおり、ポコポコ、ブーブーと音がするのを、彼らが放つ放屁だと気づいたのは、振る舞われた芋を喰っていたときでありました。

「もう終わった人々なのだ…」
と感じつつ、竹筒のお燗酒をグビリ。

だいたいにして人前で放屁をしたり、ゲップや唾をヤルという事は、定年過ぎの現象でありまして、自分を律することを忘れた行いであります。
我慢を忘れた人々は、ショックなことがあると、簡単に泣きわめき、あるいは怒鳴り散らすことになるわけでして、それは終末を告げているのであります。

「ああ、私メも同じかもしれぬ」
と、2杯目をグビリ。
「お女性にダラしないかも…」
と、3杯目をニヤニヤ。

老人たちから、「まだ仕事をしているのか」などと言われ、「どんなお仕事されてるの?」「知りたいわん」「おせーて、おせーて」と酔眼の老女にしなだれかかられ、ええ、まあ、とか、はい、とかあいまいにかわし誤魔化しつつ、注がれるままにタダ酒を10杯もいただきまして、ヨタヨタ。

最後に、記念写真をとりましたけれど、これが最後になるだろうお方は、やはり影が薄く写っているのでありました。

その画像のUPは恥ずかしいのでダメであります。

2019
04.07

金箔入りの珈琲を飲んだら、十傳スクールなのでございました。

受講生の方々のカウントを間違えまして、多く受け付けてしまい、座席が足らず、間に合わせの机と椅子を用意しなければならなくなったのでありました。

そして熱気。

心静かに珈琲を味わったことは、はるかな過去になってしまったよーでして、体力の許す限りの「四柱推命接続科」とあいなった次第。

四柱推命も断易も、当てよーとしてはいけませぬ。
とくに四柱推命は、季節との調和を、人の運命に置き換え、そこに、いくつかの風景を描けばいいのであります。
運命の嵐に翻弄される人生の風景を。

その命式が男なのか女なのか。
生まれ落ちた環境はどーだったのか。
一粒の種子が、その環境の中で、いかなる成長をとげるのか。

置き換えた風景を、鑑定の用語として、どのように表現するのか。

それは、じつに楽しい作業なのでございます。

当てよーとすると、風景が崩れますです。
風景を、素晴らしいものに完成させることに、すべての思考をめぐらせばイイのでございます。

そーしないと絶望の推命学でしかありませぬ。

朝の、濃い目の珈琲は、講義を終える16時まで、私メを興奮の幻覚へ誘ってくれたのでありました。

2019
04.04

新しい年号が「令和」と決まり、それは漢籍ではなく、日本の万葉集から採ったとされたよーであります。

そして、それがすごく得意そーなのであります。

と、なりますと、
「断易や推命の原書は隅にやられるな」
が、占いの原書などが檜舞台にあがることはなかったし、四書五経のひとつである周易など古臭い気もいたします。
「稀有の世界になりそーだ」
とも思えるのであります。

占いの原書は、占いの技術のための記述だけでなく、その底に、華僑の人々の儲け方などの集大成がビルトインされているわけでして、それこそ、占いの向こう側にそびえる仙術に通じるところがございます。

「つまりは本格的な秘伝となるであろう」
手前味噌の期待を膨らますのであります。

あたかも、満開の桜の隅で、じつは季節の花々もまた咲き誇るよーに。

桜ばかりに目を奪われていると、なにか大切なことを見失うこともございます。
それでも、人々は、
「桜、さくら!」
とハシャギますから、こちらまで、ふつ桜の花に見とれてしまうのでございますです。

「なにか悲しい事でもあったのか?」
人々のハシャギぶりは、心配になるほどではありますけれど。

十傳スクールでは、しずしずと断易、四柱推命、奇門遁甲を中心とした東洋占術を進めてまいる所存なのであります。