2024
05.14

ときには何んにもしない日を設けてもイイかもしれません。

愛犬と、朝からぐたっと寝そべって過ごしたり、お女性とふたり毛布にくるまり時を過ごすことも、あるいは心がやすまる方法かも。

私メは東京で仕事をしていると次第に殺気をおびたた心境に固まっていくことを感じます。そんなとき郷里に戻ったりすると、その緊張感がほどけて、
「すべてはどーでも良い事だったのだ」
嘘みたいに殺気が消えている自分に気づいたりいたしますです。

しかし、何んにもしないことは私メにとって苦痛というか、無駄にしたという忸怩たる思いにとらわれるのであります。
時間を無駄にした後悔だけでなく、生命を無駄にしてしまったという罪悪感にまで及ぶのであります。

つまり、肉を喰い魚を食い、米や野菜や果物を食って生きているわけで、一日を無駄にしたということは、それら犠牲にした生き物たちの命をも無為にしてしまったという罪悪感なのであります。

これは老母の影響かも知れませんです。
「ゆっくりと寝るのは死ぬときだけで良い」
が老母の口癖。
ボンヤリしていると叱られたものであります。

温泉で10分と湯に浸かってはいられないのも、そこに原因がありそーであります。
ウンコも早いのであります。
タバコを吸うのも早いのであります。

時間をかけるのは食事とおセックスくらいなものでしょーか。

日々、贖罪の意識においまわされて仕事などして生きているよーなものではないかと、ふと考えます。

方法はひとつだけございます。
断食であります。
断食をして何も犠牲にしない条件のもとなら、丸一日を何んにもせずに過ごすことができるかもしれません。

いや、なにもそこまでして、何んにもしない日を作らなくても…。

犬になってみたいものでございます。

 

2024
05.13

スクールを終えたら、きゅうに、ひかりものを食いたくなりました。
近くのイタリアンでイワシのカルパッチョでも…と事務所を出ましたが、足は、そのイタリアンではなく、勝手に地下鉄の階段をおり、神田へと向かったのであります。

神田は一年ぶり。
しかし、とても懐かしい町であります。

馴染みの寿司屋がインボイスのおかげで店じまいをしてしまってから、その店が現実になくなってしまっていることを見てしまうことが怖くて、遠のいておりました。
返す返すも腹立たしい文雄であります。
拉致して両手首を切り落としてやりたい気分。そして自宅の地下室で餌でも与えてやったら、そして手がないから犬のよーに餌を食うさまを見下ろしたら、さぞやうっぷんが晴れることでしょー。

さてさて、いつまでも馴染みの店の想い出にひたっても仕方ありません。

手ごろな寿司屋で、ひかりものを白ワインといっしょに。

「美味い…」の後に、「ん?」とすこし首を傾げたい雑味がかすかにしましたが、これも時代であります。

死んだ恋人の妹と偽りの恋をしている気分に似たお味であります。

それでもイタリアンでカルパッチョを口にするよりは良かった。

おしんこ巻きを口にしてから、それから神田界隈をブラブラ歩きながら、事務所に戻ったのでありました。

2024
05.12

5月の第2週の日曜日。
母の日であります。

流刑地に住まう老母にカーネーションを贈りました。

こんな老いた者の目をなごますために咲いたのではない、と花々は不満に思うかもしれませんが、そこは我慢していただきました。

花は美しくひときわ人目にふれ、多くの人たちを感動させることが幸福の究極であると、十傳スクールの四柱推命の講義で語っております。
根腐れを起こさず、害虫の被害にあわず、ほどよい水分と暖かな日差しと、やわらかな土の栄養を吸って気高く咲くという条件がそろって、はじめて乙日生まれの人はしやわせになるのだと。

しかし、もうひとつ大切な理想があるとすれば、甲木に巻き付き、どの花よりも高い場所で存在を認められることでしょか。

この最後の理想が、はたして流刑地の小部屋に飾られて達成させられるか。
この保証は守られることなく、やがて花びらをおとし散り枯れることになるのでありましょー。

もしも、流刑地の小部屋に悪い「気」があれば、枯れる時期は早く、良い「気」があったとしても、枯れる運命から逃れることはできません。

が、もしもモリオカの無人の実家を飾ったとしたらどーでありましょー。

スマホの見張り番を遠隔操作し、その実家の庭を眺めましたら、躑躅が赤く庭を埋め尽くしておりました。
誰の目にもつかず花々は一面に風に揺らぎながら咲いているのでありました。

「これでイイのだ」

贈ったカーネーションも庭の躑躅も、私メは見ることが出来ないのでございます。