2018
10.19

カクホ叔父の死を占した卦が、コレでございます。

用神を上爻の子父母にするか、二爻の亥父母にするか。
上爻であれば。もうお陀仏だし、いずれにしたところで、元神の申酉は空亡。

五爻の戌才の忌神は暗動して父母を剋すし、初爻も合化し、やはり父母を剋しているのでございます。

ではいつ死ぬか。
これは翌日の巳日となりますです。
上爻の子父母にとっては絶の日。
二爻の父母にとっては日破の日。

やはり翌日の巳の日に亡くなり、聞くところによると12時30分に永眠。

身内の死というものは、奇妙な偶然が起こることも面白いのであります。
実父が死ぬときは、弟も妹も、そして私メもおびただしい下痢がつづきました。
カクホ叔父が死ぬ一週間は、バカに疲れを感じ、夜の電話鑑定が終わると、ヘトヘトになり、ベッドに倒れこむような疲労感でございました。
「苦しんでいるよーだな」
遠いモリオカの病院の一室で、点滴を受けているだろうカクホ叔父と無言の霊の交信を試みたりもいたしました。

すると遠い昔に、亡き祖母の声が、脳内に響いてくるのでありました。
「おめには苦労をがげることになるっぺぞ」
祖母は縁側で梅干しにする梅を乾かす作業をしながら、
「バガばかり生んでしまったおんや~」

が、いまになって振り返りますと、亡父をふくめて祖母の生んだ8人の子供たちは、私メにとって、限りない財産となっておるのでございます。一人一人が、それぞれに不幸のエッセンスを持っていまして、
「発狂した夫をもって叔母の生年月日は…」
などと講義すると、自分自身の中で占いに対する確固たる確信と自信がわきだし、昼飯を食うのも忘れて、唾を吐きながら話に夢中になったりするのであります。

さぁ、今週末も十傳スクール。

断易が的中したことで、さらにパワーがUPいたしましたです。
一族の長でありますが、
「叔父キの本葬には出られない」
と老母に日曜日の葬儀に代わりに出てもらうことにいたしました。

「ひぇー、和尚さんの隣に座るのっかぁ…!」
恥ずかくないお悔やみをすること、と釘を刺したのでありました。

2018
10.17

「おかしい…」
仕事をしているときも、ご飯を食べている時も、ウンコをしている時も、おかしいぞ、おかしいと思っておりました。

そのように首を傾げておりましたところ、さきほど老母から連絡がございまして、
「カクオさんが、死んだど」
の連絡がありました。

カクホさんとは、私メの叔父であります。
「いつ、いつ死んだ」
「昨日だど」

やはりか、そーでなくてはならない。
今日は10月17日の壬午日。今日であってはならない。
昨日の辛巳日でなくては、断易の応期と合わないのだ。

先月の法事の直前に倒れ、そのまま入院しておりましたが、数日前には集中治療室に運ばれたという急報が入り、そこで易を立てたのでありました。

その易の内容は、後日に回すことにして、死期の判断が正確だったことに強く納得させられたのでありました。

これで、私メが亡き祖父から託された、7人の叔父叔母と父の看取りのうち、5人が終わったのでありますです。
八墓まで、あと3人。

それにしても、カクホさんの、誰からも愛されなかった人生をしのぶのでありました。
甥からも姪からも、息子からも、妻からも愛されていなかったことは、特筆すべき人生でありますです。
そして壊し屋でもありました。
たとえば、妹の結婚式の前日の、前祝の会場で、別の団体がカラオケで楽しんでいたそのカラオケのマイクの電源をいきなり切って、大乱闘となったり、父の葬儀の後の付け法事では、いきなり挙手して「兄はひどい男だった」と始めて、食事が2時間も滞ったり、その父とは70代で殴り合いの大喧嘩をしたり。

「終わったか…」
肩の荷がおりた感じなのであります。

犬のロメオもいつしか死ぬでありましょう。
そのとき、カクホさんの死の報せを聞いた今のようには冷静ではいられますまい。

2018
10.15

秘密の恋が暴露され、そこから2人の風景の相違があきらかにされるというケースがございますです。

スリリングだった関係が、突如としてリアルな現実問題となったとき、
「たいへんなことが起きました!」
占いに相談にこられる方は多いのであります。

夫から追い出されるのは罪として甘んじて受けるとして、相手の男がこれまで見せなかった社会人としての顔をみせるのであります。
「きみといっしょに暮らしたい」と言っていたのに、「待ってくれ」と及び腰になるのはほとんどのケースでありまして一致しております。

耳を傾けながら、私メは「自分だったら」などと想像に耽ることもしばしば。

もしも、自分が漂泊の詩人だったり、放浪のカメラマンであれば、ためらうことなく、相手のお女性を軽トラの荷台にくくり付けて略奪するかもしれません。
しかし、もしも自分が弁護士だったり医師だったり、つまり社会性のある仕事についていれば、いやひとつの土地に根をつけている生活をしているなら、お女性と暮らすことによって失われるひとつひとつを計算することでありましょう。

仕事は安泰で収入面での不安はなくても、家族や親族などや、煩わしい手続きを考えると、やはり「待ってくれ」と腰がひけるであろうな、と。

が、自分が狩猟民族的な仕事の放浪者で、たとえば行く先々で占いによって生活できる収入の確保の自信があったとしても、では、相手のお女性は、
「はたして付いてくるのであろうか」
と首を傾げるのであります。

夫や家族と決別したお女性は、男にも同じような痛みを知ってもらいたいのではなかろうかと。のほほんと現在の生活を維持する理不尽な不平等を許せないのではないか。そもそも「漂泊の」という子供じみた前置きが、「それこそが裏切りの気持ちのあらわれではないか」と憤慨するはずであります。いかにも流浪とか放浪とか漂泊などはファンタジーでしかありませんです。木村満夫と名乗っての、嘘つき旅行だとてせいぜい三泊四日が限界。

「そもそも」と男は考え始めるのであります。自分が社会的な立場だったからこそ、このお女性は甘い吐息をオレの耳にけむらせたのではないか。無名で地位もお金も無くても恋してくれたのか。もう考えるのはやめよう、と。

「まぁ、ここは落ち着いてワインを飲もうではないか」
グラスに赤い液体を注がれ、
「飲まないの、どうした」
赤いワインは飲むものだけど、いまは液体に映った店の窓枠を眺めていたい。この気持ちが分かってもらえないようでは、
「もうお仕舞いね」

しやわせか不幸かを決めることは、お女性の経済性にかかっていることは、これは占うまでもないことなのであります。
快楽が冷めると、そとは冷たい現実の棘が突き刺さるのでありますから。