2023
04.22

画像は、墓参りのために選んだ供花を、勝手に包めと、台に置かれた古新聞紙であります。
そこには、何月かの24日、25日に亡くなった人の名前が記されています。
地方紙は、この慶弔記事が面白いのであります。
つい、自分と同じ年齢の人はいるかと目を走らせます。

旅行先の地方紙でもイイのです。

見知らぬ人であっても、どんな人生だったかを想像するのであります。住所の最後に、喪主の人の名前もあり、それは配偶者なのか、兄弟姉妹なのかも気になります。
どういう幼少時代を過ごし、どんな学生時代を送り、恋の体験や、仕事や、楽しい出来事や悲しい経験は…と想像しますと、紙面に目が吸い込まれてしまうのです。

モリオカで、知った人の死を、慶弔欄で発見した時は、当ててはいけない当たりくじを引いたような気になり、そわそわしたり致します。
誰かに告げまわりたいよーな、こっそり火葬場にまぎれみたいよーな、自分の気持ちに蓋ができなくなってしまうのでございます。

そんなとき、ごくたまに知人から電話がかかります。
「知ってる?」
「いまモリオカ。新聞を見た」
そして、「何月生まれだっけ」と職業病が出たりいたします。
生年月日から命式を出し、死期を確認したいという病気が。また、死後に命式を追うことで正確に判断できます。
「彼は、こんなに悪い命式なのに、かなり稼いでいますが…」
在命中では見えなかったことが、人生が閉じると同時に明確に見えてくるものでございます。

「火葬に行く?」
「さー、どーするべ~」
見知らぬ遺族にお金を渡し、その遺族の顔つきの中に故人の顔を発見し、だのに他人行儀の会話しかなく、いるにいられず帰り路をとぼとぼ歩く、あの不思議な孤独感ともいえぬ空白の思いを、「行ってみるか」と言えるのは、どんな死に方をしたのかという好奇心しかないのでございますです。