2016
07.15

久しぶりにエロ訳百人一首をば。
今回は大納言公任。
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ」

学者さんの解釈は、
「すでに水も枯れて滝の音が聞けなくなってしまったけれど、その名高い評判だけは、いまだせ世間に聞こえていることであるよ」
であります。
これでは、面白くありませぬ。

公任という男は漢詩、和歌、書道など何をやらせても天才でありました。が、激しい癇癪持ちで、ライバルの斉信が自分より出世したことに腹を立てて職を下りると意地を張り七カ月も出仕しなかったのであります。それで宮中では従二位の身分をつけてやって、なんとかナダメたとか。

この歌で目をつけたいのが「名こそ」であります。

「名こそ」は、もう一人相模が詠んでおりますです。
「うらみわび ほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ『名こそ』惜しけれ」と。

公任の息子と、相模は束の間の恋に堕ちたことがございます。
余談でありますが、息子の定頼も父に劣らず癇癪持ちで、三条天皇のお供で春日大社に行く途中に暴力事件を起こし、五年間職を取り上げられたとか。
「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらわれわたる瀬々の網代木」と詠んだヤツであります。

さて、私メは、公任が、相模をエロ女に仕上げた張本人ではないかと疑っております。が、息子の定頼に相模奪われたのでは…と。

「滝の音(おと)」とはH時に発する膣音であり、元気の良い音、つまり滝のように勃起する男(おとこ)」の二つの意味でございます。その男の方のが年齢のために「絶えて久しくなってしまった」ということであります。そして、「お前だって老婆になれば滝が枯れることになるのだぞ」という二重の意味。
絶えてとは、色が絶えてという意味であることは申すまでもございませぬ。

名こそは、「な来そ=来るな」であります。
「あなたのような使いものにならない男は来られても困るのよ」なんて言われたのでありましょう。
聞こえてくるのは相模の淫らな噂。
鍛え上げたテクニックと経験を馳駆し、相模に女の悦びを教えてやったのはワシであったのに…。老いた男の哀しさでございます。

息子に愛人を寝取られた悲哀が「滝」と「音」に込められているよーであります。
「立」は「童」。包茎を意味することは述べております。
滝も音も「童」に通じます。息子の幼った頃のペニスしか見てはいない公任は「あんなソチンでは父親であるワシに勝てるはずがない」
父と子の葛藤の宿命でありましょーか。

相模はやがて公任の息子とも別れるのであります。

ところが相模もまた、若い男を渡り歩きながら、やはり公任ジジイのアレが忘れられなかったのでございましょうか。
で、五十才になってから、亡き公任を偲び「恋にくちなむ 名こそ惜しけれ」と「名こそ」で共鳴したのでありましょう。

「名こそ」は「勿来の関」であります。
相模は、最初の夫の赴任先の相模の国に参っております。そしてすぐに離婚。相模は神奈川県。勿来は福島県。
なんとなく「勿来」は二人の想い出の地であったかも…と思ってしまうのでございますです。

私メもゆっくりと老いてまいりまして、老人のまだ、男のハシクレといういじらしさを理解しておるのであります。

2016
07.14

「辞書を引いたんですけど、オノさんが良く使っている『濁情』って言葉が載っていないんですけど」
なんて声がこざいます。

造語でありますから、辞典に載っていないのは当然カモであります。

「純情」に対しての言葉としての関係を「濁情」だと意識しておりますです。

純情は、お金とかの欲に支配されない愛情でございます。
「お前といっしょなら、お金なんていらない。メジャーにならなく立ってかまわない」というヤツであります。
とてもとても、おしょしいのでありますが、10代の頃、私メもこの口から、この言葉を発した過去がございますです。

この世は様々な欲がございます。お金だけではございませぬ。性欲から食欲、名声欲、支配欲……。百八の煩悩があるそーでありますが、欲には際限がございませぬ。
純情は、そのうちの一つの欲に専一なのでありましょう。

つまり嘘の欲であります。
「お金なんていらない」
と、口からこぼれたということは、お金をひどく意識しているというワケでありますから。

濁情は、欲に汚された本当の純情かもしれませんです。

ラブホで肉欲の限りを尽くしたあと「お腹空いたね」とラーメンの大盛りで食欲を満たし「マックよ潰れよ」と指を指して破壊欲を発散させ、「服でも買ってやるよ」と相手の物欲を満たしてやり、こちらは飼育欲で中和させる。濁情こそ愛情に沈んでいるホントの気持ちではあるまいかと思ったりいたします。

愛情がなければ、肉欲を満たしたならば、いちはやく相手から逃れたくなるからであります。

2016
07.13

呪術セミナーの開催も近づき、準備をしております。

これは秋以降に予定している奇門遁甲造作科の前段階だと、私メは勝手に描いているのであります。
むろん、造作科にお出になられか否かは、ぜんぜん関係ありませんです。
造作科では、基本的事項から進めますです。
けれど、呪術における基本的な取り扱い…たとえば水を、死水とか活水、沸水などいくつかに分けて、それぞれの目的に使用するという構えは、とても酷似しているのであります。

本日、完成させたドライフラワーも呪術には直接には関わりはありませんが、机に広げると何やら効き目がありそうな感じでございました。

乾燥中のトカゲを配して見ましたら、なかなか楽しそーであります。
ヤモリは造作ではなく、呪術に使用するモノでございますけどね。いえいえ、必需品ではないのでご心配なく。

私の部屋は、この類がガラス瓶に入れて飾られております。
「ギャッ!」
なんて思うかもしれませんけど、湘南名物のシラス干しやアジの干物と同じであります。食べられるかどーかが違うだけでございます。

一般の方々には笑止千万なモノを、こうやって作成しているわけでして、精神科のドアを叩いたら、変な病名をつけられそーでございますね。でもですよ、私メのお客様には、自殺願望者や精神病院の独房から出てきたお方も多ございます。
お話を聞いたり占ったりしているうちに、奇妙な共感を覚えるのも、私メの趣味が通り道になっているからかもしれませんです。

自殺願望者や発狂者には、お金という薬がもっとも効き目があるということも体験的に知っておるのであります。