2023
04.24

今月からスタートした奇門遁甲家相で、地相の「気」を読む訓練を始めておるのであります。
12回のうち、6回は「巒頭」の講義でございます。
巒頭とは、地相及び家相を、目で観察することであり、これはべつに奇門遁甲だけのものではなく、古くからの「龍・穴・砂・水」を知る上での基本でございます。

しかし、目で見るとは申しましても、これが非常に難解。
場所の龍脈だの、その龍脈のながれからポイントとなる一点を調べるものであります。
さまざまな家相の本にも、巒頭について述べられてはおりますが、ただ文章として記されているだけ。
これではチンプンカンプン。
ただ分かったよーな気持ちになるだけでございます。

以前、私メの家相セミナーでも、巒頭について触れましたが、今回の家相は、そこから一歩踏み込んで、「気」をどうやって読んでいくかの訓練の方法を語ることにしたのでございます。

「気」を読むことは、人相の血色や気色を読むことにも通じるのであります。

リモートですから、実地に訓練することは致しませんが、宿題として、まずは神社に行ってもらうことにいたしました。
受講者の皆さんの何人が実際に神社に行ったかどーかは調べることはできませんが、おそらく全員の方々が、
「どれどれ」
と神社に足を運ばれたのではないかと思いますです。

書物に記されているのは、実地で龍・穴・砂・水の「気」を読んだ名人が、その体験を文章にしたものですから、リアルには伝わりません。
ですから、名人が文章にするまでの体験を実地でおこなってもらうしかないのであります。

風の重さや、大気の匂い、空気の音、肌を通す痛みなどをキャッチし、体内にどのように流れ込んでいくかを、いくつかの訓練によって受け止めてもらいたいのであります。
私メも、こんな講義を受けたことはごさいません。
けれども、巒頭という簡単そうで、じつはこれほど難しい分野を、すこしでも体で覚えていただければ、講義する意義がございます。

目を傷めてから、私メ個人は、人の体から立ち上る陽炎だの、皮膚の底を動く粒子をみることが出来るよーになっております。
つまり、コツを会得した上は、これを受講者諸君に伝えないではいられません。

さきほども老母の額からモヤモヤした赤い刺のような「気」が出ており、これは何だろーとか考えたりしているのでございます。

2023
04.23

「不味くなった…」
ひと口食べて、そう思いました。

ほとんど名前の知られていない店ですが、けっこう混んでいて静かな人気店が、モリオカのはずれにあったのであります。
用事で近くを通りかかったので、久しぶりに堪能しよーと立ち寄ったところ、コレでございました。

物価高のあおりなのでしょーか、値段が随分と上がっておりました。
しかし、味を落としてはいけません。

食い物屋が味を落とす、大工が手抜きをする、易者がテキトー鑑定をしてしまうのはいけません。
本業のその本質をおろそかにすること以上に致命的なことはございません。

つきあっている男女が、その関係に慣れてしまい思いやりがずさんになったとたんに恋愛が崩壊するのと同様でございます。
「昨日メールしたけど…」
「仕事が立て込んでいてね」
古い歌謡曲にもございますが、♪このごろはちょっと冷たいね、送りもせずに♪てな感じでしょーか。

そーいえばモリオカ近郊に大人気の蕎麦屋がありました。山奥に行列しているのは、どこか不自然でしたが、たしかに、
「これは美味い!」
舌鼓を打ったものであります。
ところが数年後に立ち寄ったところ、行列はおろか店内が閑散としておりました。
食ってみると、蕎麦は不味いし、ワサビは、SB食品のチューブを放られた時には、テーブルごとひっくり返してやろうーかと腹立たしくなったものであります。

占い業界も、次々に衰退しているグループを見聞きしております。
外れるも八卦の奴らを集め、派手な宣伝とTVとタイアップしてやっていたよーなグループであります。

ホンモノしか生き残れない切羽詰まった時代なのであります。

自分自身の鑑定もですが、十傳スクールには全力投球する必要を実感したのでございます。

2023
04.22

画像は、墓参りのために選んだ供花を、勝手に包めと、台に置かれた古新聞紙であります。
そこには、何月かの24日、25日に亡くなった人の名前が記されています。
地方紙は、この慶弔記事が面白いのであります。
つい、自分と同じ年齢の人はいるかと目を走らせます。

旅行先の地方紙でもイイのです。

見知らぬ人であっても、どんな人生だったかを想像するのであります。住所の最後に、喪主の人の名前もあり、それは配偶者なのか、兄弟姉妹なのかも気になります。
どういう幼少時代を過ごし、どんな学生時代を送り、恋の体験や、仕事や、楽しい出来事や悲しい経験は…と想像しますと、紙面に目が吸い込まれてしまうのです。

モリオカで、知った人の死を、慶弔欄で発見した時は、当ててはいけない当たりくじを引いたような気になり、そわそわしたり致します。
誰かに告げまわりたいよーな、こっそり火葬場にまぎれみたいよーな、自分の気持ちに蓋ができなくなってしまうのでございます。

そんなとき、ごくたまに知人から電話がかかります。
「知ってる?」
「いまモリオカ。新聞を見た」
そして、「何月生まれだっけ」と職業病が出たりいたします。
生年月日から命式を出し、死期を確認したいという病気が。また、死後に命式を追うことで正確に判断できます。
「彼は、こんなに悪い命式なのに、かなり稼いでいますが…」
在命中では見えなかったことが、人生が閉じると同時に明確に見えてくるものでございます。

「火葬に行く?」
「さー、どーするべ~」
見知らぬ遺族にお金を渡し、その遺族の顔つきの中に故人の顔を発見し、だのに他人行儀の会話しかなく、いるにいられず帰り路をとぼとぼ歩く、あの不思議な孤独感ともいえぬ空白の思いを、「行ってみるか」と言えるのは、どんな死に方をしたのかという好奇心しかないのでございますです。