2015
05.18

家相セミナーまで約二週間、自由な生活を楽しみ成しておりましたが、原稿の依頼が届きまして、机上の仕事に精を出さなければなりませぬ。

奇門遁甲で宝くじをというコンセプトは学研ムーでございます。
これにはマグネットの富本銭がオマケに付くそうでございますよ。

ところで四柱推命には天干に「丙」が二つ以上あることを好みませぬ。
それは「天に二つの太陽なし、国に2人の君主なし、家に2人の亭主なし」というところに由来しているよーでございます。

大阪都構想もこれで、いささか案じておりました。
その美夢も煙と化しましたです。

もしも大阪が都になったならば最初は理想的に進むでありましょうが、やがて役割分担などで平衡が崩れることでありましょう。大阪の発展は東京を抜くことなしには実現しないのであります。
さらに二都となれば、大阪に皇族をおかねばなませぬ。
江戸幕府が上野に輪王寺家だったかを創設したよーに。
幕末時に彰義隊が上野に集結したのは、この皇族をかつぎあげようという目論見があったからでございます。
じっさい仙台にて東武天皇か即位した事実は歴史の闇に葬られておりますです。

徳川は、江戸に天皇を引っ張ってくることをしなかったことが唯一の失策であり、新政府は、その失策を知って、むりっくり京都から天皇を連れて来て近くに住まわせ、天皇を奉ろうとする危険を防止したのでございます。

このお話は、後日、詳しくUPしたいと思いますが、太平洋戦争終結まで新政府の秘密事項とされていたことでございますです。
いずれにせよ、二都は内乱の予兆であり、またしても国民が誰かの欲の犠牲になったことでございましょう。

こちらの依頼はanan。
まるで昨日、十傳スクールの講義がおわったことを見ていたよーなタイミングでございます。

が、この数年間で言論統制のようなものが、静かに蔓延し、思ったことを自由に書けないので、その隙間を縫うような工夫に頭を使わねばなりませぬ。
たかが占い原稿なのに、でありますよ。

そういうなかで、くだんのドローンは快挙でありました。国民栄誉賞を授与したいおもいでいっぱいでございます。

さて、原稿作成にはいりましょうか……。

2015
05.16

いかなる運命にもジョーカーが潜んでいるモノでございます。

とんとん拍子にいっていたことが突如として音を立てて崩れ去ることは、その被害の大小こそ違っても、さして珍しいことではありませぬ。

伏兵にやられますと、将来にたいして暗澹たる絶望をいだき、鬱となり、あるいは落魄したまま人生を送り、またあるいは、さらに傷を深める過ちをするよーであります。

でありますから成功者と呼ばれるお方は一握りの少数とあいなるのでございます。

今後、さらにこの傾向は増えることでありましょう。

自分の源流を知らずに生きているからであります。
日本人は西洋人と異なり神という規範をもちませぬ。
モラルもございませぬ。
運命も迷信だと切り捨て、利益とおセックスばかりを追い求めるのであります。

テニスの試合を見ましたら、相手のミスにガッツポーズをしておりました。バレーボールでは相手チームのサーブミスに大喜びして六人の選手たちが抱き合っておりました。どこがサムライ日本でありましょう。武士道に反しておりますです。
と思えば、駅伝では倒れながらタスキを渡すランナーに涙の声援を送っているのでございます。相撲でも柔道でも相手の傷めたところを攻めてはいけないのであります。

このように確固たる規範を持たない民族でありますから、いちど失敗すると二度と立ち直ることはできないのであります。

もし、命の源流を知っていれば、「自分はこんなことで絶望するわけにはいかない」とパワーを集中させるでありましょう。

足利家には先祖がまだ見ぬ子孫にあてた「置文」とかがあったそうでございます。足利尊氏はその置文を読み、底知れない力を出し、悪どいことも平気で踏み越えていったということであります。
先祖の力とはそういうものでございいますが、先祖すら粗末にする民族となり果ててしまっては、これも今では効き目がありませぬ。

運命学を信じないお方たちに、四柱推命の鑑定書の価値が分かるかどうか、それは知りませぬ。
しかし、運命の伏兵にやられたときに立ち直るキッカケのひとつとなるのではないか。

もし絶望した子供に親が、「これはお前が生まれたときに鑑定してもらったものだ」と一巻の鑑定書を手渡したら、そしてそこに「汝には、たとえ一敗地にまみれたとしても異国で成功する運命が宿されている。聞け、天の声、地の歓声を、往け、汝は太陽の化身なればなり」などと記されていたら、我が命の源流にふれて発奮するのではないか。

どんなに悪い運命にも、運命を好転する方法がございます。
四柱推命や奇門遁甲は、その運命好転の法なのでございます。
絶望を学ぶだけならば、四柱推命やその他の運命学はとうに廃れていたはずであります。

私メの腐った頭脳にちと血が通ったような気がいたしますです。

なーんて、曇天の空を眺めつつ思いに耽るのでありました。

2015
05.15

花の季節らしく、つぎからつぎへと新しい花がはなびらを誇らしく広げているのであります。

街は花の色と香りで満ち、日の光も花のきらめきには劣っているようにも感じますです。

少女がまたたくうちに大人になるように、花もまた実をつけるのに時間は要しませんです。

実をつけるために花を咲かせることを、ド~してか忘れるものでありますが、花は人間の目を和ませるために咲くのではなく結実させることが目的なのであります。

そうすると虫を呼んで受粉するわけですから、花はその蜜と花弁で虫を誘惑しなくてはなりませんです。とするとですよ、虫も花の美しさが分かるということになりますです。密の甘さだけではなく、花弁の鮮やかな色が必要だということになりますと、美という本質も人間だけに通用するものではないのかも、などと余計な空想に入り込むのでありました。

昨日、自慢げに咲いていた花も、カバラ朋美のように萎れておるのでございました。
なんとなく、ざまぁ見やがれっていう気分に駆られ、たいそう機嫌よくなるのでございました。
「毟ってさしあげましょうか?」
と悪意のこもったジョークも発したい気分になるのでございました。

小生意気なお女性に足をかけてひっ転ばせて泣かせたような残忍さも噴き出してまいりますです。

しかし、憎くて恨んでそうするのではありませんですよ。
可愛い女の子のスカートをめくってしまう少年の気持ちにも近いのでございますです。

ほーら、春先に人々の目を留めた梅の花は、見事な実をつけております。

あの可憐な桃色の花だったことが嘘のようでありますけれど、じっくりと見ていると、この実もまた色っぽいではありませんか。

齧って「いたーい」と悲鳴を上げたさせたくなるのでありました。

ともあれ、男と女の関係は単純で複雑。
個性的で没個性。
いろいろでありますが、滑稽という二文字で解決されるようなものかも知れませんですね。