2014
09.22

他人には価値のないものでも、本人にしてみたら大切にしているモノがあるものであります。

私メにとって、この扇子がソレかもしれませぬ。
1か月間あまり、この扇子のない生活をして、やはり「あの扇子でなければ」と思い知ったのでありました。

8月のあの猛暑の中、十傳スクールの受講生の方が暑がっているのを気の毒に思い、お貸ししたところ、うっかり返してもらうのを忘れていたのでありました。

それが、先日の講義に返して頂き、心がやっと落ち着いたのでありました。

「ははーん、これは濁情を比喩しているのだな」
と思われたかも知れませぬね。
「失った愛の重さを、別れて初めて知ったと言おうとしているのだ。そして扇子と女の脚の開きを連想させようとしているに違いない」と。

いえいえ、どのように思われても、それは勝手でありますが、濁情などというものは、もともと貸し借りもなく、損得もなく、また成長も退化もありませぬ。
出会った瞬間に、すでに本質が失われるものでございますです。

冬扇は、役に立たないことの代名詞でございますが、秋扇はどーなのでありましょう。
秋になり気温が下がると、電車の冷房も入らないので、かえって車内は暑苦しくなり、秋扇はそんなとき役に立つモノでございます。
あれば便利なのが秋扇かもしれませぬ。

困ったときにだけ「ねぇ聞いて聞いて」といえる存在とも言えましょう。
そういう知人を持つことは、財産とまではいかなくても、ちょっとしたヘソクリ的な存在であります。
そういう知人はおりますでしょうか。

私メにはおりませぬ。
つねにやせ我慢でありますです。
なので、このたびの扇子の帰還はじつに嬉しいのでございますです。

  1. ごめんなさいでした…。

    セ…で始まり
    ス…で終わる
    先生の大切なアレを。

    ●十傳より→画像の、下に敷いている絹製のもとのサヤに挿入しておきましたです。