2011
08.14

パンツまで汗がしみとおるほどの暑さのなか、松林を歩くのでありました。

いろいろと考えなければならないことがあるのですが、郷里の懐かしい森の、にじむような緑にみとれたり、ひぐらしの鳴き声に聞き入るばかりで、考えがまとまらないのでありました。

今年のお盆は、震災で亡くなった人たちのおうち回りで、それが終わったらがくっと疲れているのでありました。

おもいだしたようにそよぐ風のように、女の膝に顔をふせ、指先で髪の毛をやわらかくしごいてほしいおもいなのであります。

イメージとすれば画像の感じでしょうか。

でありますから、思考が子供っぽくなっていることを自覚いたします。

心では重たすぎるのでございます。
かといって自動人形ではつまりません。
心を求めずというか、ただいっしょにいることで心の匂いをけすような関係を求めているのかもしれませんです。

指先におもいをのせ、ゆっくりと髪の毛をしごいてくれれば、それはぜいたくな幸せというものでありましょう。

目を覚ますと、うちわであおいでくれていて、庭先のひとむれを見つめている、そういう夏の幻想にひたりつつ、森を歩くのでありました。

2011
08.13

ちょいワルオヤジとして、日本に根づいているイタ公さんのジローラモ氏でありますが、彼の人相には、くっきりと駅馬ホクロがあるのであります。

駅馬ホクロ、あるいは辺地ホクロの持ち主は、郷里で成功することは、まず絶望的といってよろしいでありましょう。

とにかく郷里を去らなければ幸運が巡ってこない運命といって過言ではないのであります。

で、ジローラモ氏のどこが、そのホクロかと申しますと、額の向かって左の生え際にあるホクロであります。

最近はこのホクロは巨大化し十倍ほどの大きさに膨れ上がっているようであります。
だいたい日本にいる外国人というのは本国ではぜんぜんダメで、日本に行けばどうにかなるだろうとタカをくくって渡来するわけであります。

それは日本も同様でして、まったくモテないお女性さんたちが、外国に住むようであります。そして数人のパトロンを得て暮らしているということ。

けれど異国で成功しようとしてもなかなかに大変なのであります。
この額の際のホクロが、まずは海外で成功するためのパスポートというところでしょうか。

が、海外といいましたが、何も外国とは決まっておりませんです。
とにかく郷里を離れることが運命づけられていると解釈すれば、日本国内だって異国となるわけでありのであります。

心配なのはシローラモ氏の巨大化したホクロであります。
この世から旅立つという暗示とも取れるのでございす。

しかし、そんな不吉なことはおいておき、各地を転々とすることで運命が回るというのも、駅馬、辺地ホクロの特徴なのであります。

かくいう私メにも、そのホクロがあるのであります。
距離のモリオカにいて、墓参りや初盆でよその家にお邪魔するにつけて、
「やっぱりモリオカでは暮らしてはいけなかったなぁ」
という思いになるのでした。

一月に一度の割りで帰ってくるというスタイルが合っているのだと再確認したりするのでありました。

すべて、このホクロのせいだと、原因を、ホクロになすりつけようとおもうのでございますです。

2011
08.12

朝から墓参りに出かけ、帰って来たのは16時過ぎでありました。

花巻の近くのお寺までいきましたから走行距離は150キロに達してしまいました。

フラッパーな祖母の後年の同棲相手、大矢権四郎の墓にまで花をささげたのであります。

死んでしまうと憎しみというものもいっしょに消えるものでございます。
そうではない相手もなかにはいるかもしれませんが、たいていは「あんなこともあったなぁ」と懐かしむ記憶に変換されるもののようでございます。

では、愛情はどうなのかとふと思ったのでございます。
憎しみが消えるなら、愛も消えてもいいはずであります。

さて、どーなのか。
いちがいには断定することは難しいのでありました。

死んでも愛する妻を迎えに黄泉の国に降りていったオルフェ。

けれど、仇を討つために死の国に、すでに死んだ相手を探し求めるという話をきいたことはございません。

いろいろな墓に手を合わせるたびに、故人の人生が果たして幸せだったのかどうかを考えるのでありました。
なにひとつ良いことがなかったはずの亡き叔母にも、楽しいことや嬉しいことがあったに違いないのであります。でなければ自殺していたはずです。

なにかのぞみがあるから人間は生きていられるのでありましょう。

ひまわりが芸術的に枯れておりました。
夏の死なのでしょうか。

地球が誕生してから生死を繰り返し、あっとうして死の数の方が多いのだという、いや死の数だけが残るのだという、しごく当たり前のことを、しばしば忘れるのであります。
死者はあわれだ、と思いこんでおりますが、じつは生きている方が哀れなのかも知れないのでございますです。