2011
08.12

朝から墓参りに出かけ、帰って来たのは16時過ぎでありました。

花巻の近くのお寺までいきましたから走行距離は150キロに達してしまいました。

フラッパーな祖母の後年の同棲相手、大矢権四郎の墓にまで花をささげたのであります。

死んでしまうと憎しみというものもいっしょに消えるものでございます。
そうではない相手もなかにはいるかもしれませんが、たいていは「あんなこともあったなぁ」と懐かしむ記憶に変換されるもののようでございます。

では、愛情はどうなのかとふと思ったのでございます。
憎しみが消えるなら、愛も消えてもいいはずであります。

さて、どーなのか。
いちがいには断定することは難しいのでありました。

死んでも愛する妻を迎えに黄泉の国に降りていったオルフェ。

けれど、仇を討つために死の国に、すでに死んだ相手を探し求めるという話をきいたことはございません。

いろいろな墓に手を合わせるたびに、故人の人生が果たして幸せだったのかどうかを考えるのでありました。
なにひとつ良いことがなかったはずの亡き叔母にも、楽しいことや嬉しいことがあったに違いないのであります。でなければ自殺していたはずです。

なにかのぞみがあるから人間は生きていられるのでありましょう。

ひまわりが芸術的に枯れておりました。
夏の死なのでしょうか。

地球が誕生してから生死を繰り返し、あっとうして死の数の方が多いのだという、いや死の数だけが残るのだという、しごく当たり前のことを、しばしば忘れるのであります。
死者はあわれだ、と思いこんでおりますが、じつは生きている方が哀れなのかも知れないのでございますです。