2015
01.22

春が怖ろしいのであります。春になって花々が咲き競い、花の香りの風に吹かれれば、落ち着くのですが、冬に沈んでいる今の季節に、春を思うと、考えただけでゾッといたします。

ひとつの濁情の終わりを予感しつつ、もう恋など御免こうむりますと思う気持とどこか似ておるのであります。
新芽の如き、リズムが全身からほとばしるお女性から、あえて目を伏せて過ぎ去ったお女性たちの、帰り来ぬ歓声を思い出すのみ…。

とは言いつつも、さきの葬式で私メと同い年の60男の親戚の白髪+ハゲの絶望的なお姿を見ると、「ああ、出来るうちにだ」と焦る感情もどこかに潜んでおるのでございます。
私メにとって20代も30代も40代も、そして50代のお女性も新芽として認識してしまうのですから、これは始末に負えませぬ。

そして、教えられた技術をば後世に伝えることになるのでありましょうか。
「未開発のままだったんだね」と。

空海の真言密教の秘儀が、男女の結合の喜びを念頭におけばすらすらと読み解くことができるように、仏教のすべての道具だけでなく印を結ぶ指も、合掌すらも、すべておセックスの愉悦を語るものであるのであります。異端と蔑視される立川流の誕生のなぞも、ここに視点を置くことで見えてくるのでありますです。

以上は、付け法事での僧侶と私メの会話の内容でありますです。
なにしろ私メの席は、ひな壇の僧侶の隣でありましたゆえ、なにかにとお喋り坊主から戯論をふっかけられたのでございました。

濁情の問題点は「心」というヤツでございます。

秘儀、秘法、秘伝と聞くと、妙な官能が渦巻きはしませんでしょうか。
それら秘密に関係することの根底に、「嫉妬」があるからに他なりません。

「あんだだけだよ」
という特別待遇。
「わだすだけにだえん」
という優越意識。

これらは濁情の問題点である嫉妬と絡んでおりますです。
とくにお女性にとっては秘密の二文字は濁情の要でありますです。

嫉妬のない濁情は味気なく、しかし嫉妬をたっぷりと吸い込んだ濁情は、そこから破綻いたしますです。

煩悩とは嫉妬の別称であり、その入り口は秘密という目もくらむ恋の本質なのではないかと、老僕はしみじみと省みるのでありますです。

私メだけが鑑賞する花であることに満足しつつも、他人にもその花をみせてやりたい…。
蓮の上に立つ仏の姿はまるで女陰と男根の結合だと、その春の到来を恐れんでおるのでありますです。