2016
02.19

「鉢の木」という能がございます。
落ちぶれ武士の家に、旅の僧が大雪の晩に一夜の宿を請うのであります。
武士は粗末な料理をふるまい、そのうちに火が消えた囲炉裏に、大切にしていた秘蔵の鉢の木を焚いて僧を温めたという話。この僧がじつは、北条時頼で、イザ鎌倉のときに、その武士に褒美をとらせたという美談であります。

この話は、おそらく三国志からネタをひろったのではないかと思います。

玄徳がある貧乏な家で一夜を請うと、その主人は自分の妻を殺し、その肉を食わせたという不気味な美談がございますから。

日本では「鉢の木」の話がもてはやされますです。
こないだのNHKの「この国のナントカ」というヤツでは、日本人の原点は、この鎌倉のお話にあると司馬遼太郎が語っていたとナレーターしておりました。

見も知らぬ相手に、過剰なサービスをするのは身弱の食傷大過かもしれませぬ。
これも昔のお話ですが、女房の着物を質に入れて友達にお金を工面するということに通じますです。
「なんで友達なんかのために…」
と思うか(身内びいき)、
「友達なのだから仕方ないでしょうね」
と思うかで(友達・他人びいき)、
そのお方の命式がおぼろに見えてきたりいたします。

迷信だとか根拠のないデタラメと隅に追いやられている占いでありますが、何千年も改良されながら存在し続けているには、やはり、それなりの何かがあるのでありましょう。

佐倉市で、カウンセラーを人質にして教会に立てこもった男が逮捕されたらしいですけれど、カウンセラーはどのような話で、この男を納得させようとしたのでしょうか。善悪で、ほんの少しでも決めつけて男に接すれば、こういう結果になるのであります。
カウンセラーと易者は似ているような仕事をしておるようでいて、根本において異なっているのであります。

だいたいにしてカウンセラーは「困っている人の人助け」という意識で、エリート臭いのであります。それだけで「包丁でぶっ殺してやるか」と殺意してしまいますです。
易者は自分は人間の屑だという自覚がかなりあるはずであります。でなければ、ついに発狂してしまったかのおののき。とても「わたしは占いをしていいます」なんて公言できませぬ。亡父に「堕ちるところまで堕ちたようだな」と言われましたし。そこがカウンセラーとの差異といえば言えそうであります。

まぁ、いいさ。

私メは大運で食傷運が到来しておりますです。身強過ぎてますから丁度イイのではありますけれど。
で、来週は、いよいよ「金持ち前夜祭」
鉢の木の話を思い出したというワケであります。