2010
09.15

DSCN5590おもてではちょっとした秋風が吹き抜けております。

逝く夏を惜しむかのように、「そうだ、そうめんを食おう」とJRのCMみたいに口にでてしまいました。

ほんとうに食いたかったかどうかわかりません。

茹でたそうめんを水でさらしていると、なるほど水道水が冷たいのであります。

とっくに夏は終わっていたのか…などとしんみりしたのでありました。

こうなると代わりに頭をもたげてくるのは旅ごころであります。

「とこかにいきたい」とあれこれ考えるのですが、函館で塩ラーメンを食べるのもよし、長崎でちゃんぽんを食うのもよし…「なんかいも行っているではないか」と、行きたいところではなく、食いたいところしか浮かばないのでございます。

どこで死にたいかと、別の角度からアプローチすると、行きたい場所がみつかりそうです。
隠岐の島、対馬、壱岐、礼文島…島か。
最果ての町のバス停のベンチに座りながら死んでみたいと思ったりいたします。季節は秋から冬。できれば風に雪が混じっていればいい…いや、桜の季節も悪くないような…。
これでは理想の死に方をするために、命がいくつあっても足りませぬ。

とりあえず、あと少しで仕事も片付くので、それからゆっくりと考えればいいことであります。

…みなさんは、どのような死に方をされたいのでしょうか。

11 comments

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  1. こんにちは!そうめんなら揖保の糸以外でも大好きです。
    旅行か住みたいのか私は来月、北に一週間ほど行く予定を入れました。
    方位も大切だとひしひし感じておりますです。
    ●十傳より→そうですよ。秋の北は最高です。が、南も捨てがたく…。

  2. どんな死にかたがしたいか?う~ん、私は好きな人を看取ってから、その人が迎えに来た様にその後1~2年の内に眠る様に苦しむ事なく突然死したいな。家でね。出来れば布団の中で。で山の樹の下に散灰してもらうのです。それが私のお墓の代り。樹の栄養にもなって私はその樹と共に生きて行くんです。その樹が朽ちてもまたそこの土の栄養になって…。てな具合。
     ●十傳より→ふーむ。森の静寂さがつたわってまいりしまた。昨年死んだ愛犬ゴウはまさに山の大木の下に遺骨をうめましたでござる。

  3. 私は敬愛する演奏家のコンサートで、一番後ろの端の席で、アンコール曲が終了すると共に眠るように死にたいです~。
    あ、でも、まわりの人たちにとっては、えらい迷惑ですよね。ははは。
     ●十傳より→いやいや死ぬときくらい迷惑をかけたっていいではありませんか。

  4. 先生の手にかかると不吉なことも、楽しい夢になりますね。
    わたしは好きな人といっしょに死にたい。セックスの最中に死ねたら…。そうおもうことよくあります。
     ●十傳より→押尾氏がそれで困っておりますぞ。愛の流刑地ってことでしょうか。

  5. 「桜散るとき・・・」、静かに死にたいものです。
    となると、桜前線にあわせての旅ということでしょうか。
    ●十傳より→西行法師も「願わくば花のしたにて春死なん、その如月の望月のころ」なんて詠んで、その通りに死んでいるのであります。

  6. 話題は素麺より「自分の死」についての方が盛況ですね(笑)
    私なら…ストーブの消えた冬の夜、布団の中で静かに、最後の息を吐いた時に、ふっと命の火が消えるのがいいですね。
    真夏に腐り果てるなんて、まっぴらです。
     ●十傳より→アーメン、ソーメンということなのであります。

  7. 渡辺淳一先生の「かりそめ」…のように死にたいです。
    もし病気になっても、手術や治療もしないで、誰にも何も
    言わずに静かに…。
    ●十傳より→シートン動物記の「大灰色熊の一生」のワープも最後は死の谷にみずからおもむき、ごろりと横たわるのです。岩から吹きだす毒ガスが母の子守唄のように聞こえるのであります。あの死に方はこたえられませぬ。

  8. サイト・リニューアル後の十傳先生は、
    繊細さが際立ってきてステキです。
    死をいつも見つめている人は、一流の
    アーティストに多いですね。
    死なないなんて豪胆なことを言ってい
    る人は才能のない人だと職業柄知って
    ます。
    わたしは野菜畑で死にたいな。
    だけど、先生は西行法師からシートン
    動物記まで良よくご存じなんですね。
     ●十傳より→亡父は庭仕事の最中に死にました。いまになって家族で「あれは羨ましい死に方であった」と語り合っておるのであります。

  9. 死んだあとの処遇について考えたことはありますが、最期の時のシチュエーションは考えたことはなかったかも。
    皆さん其々個性があって、感心しております。
    私的には…。
    第一希望…好きな人と一緒に死ぬ。=心中ではありませんよ(笑)。事故でも災害でも、とにかく一緒に手を繋いで死にたい。
    第二希望…好きな人の腕に抱かれて静かに息を引き取りたい。=病気か老衰か。
    第三希望=現実的に=「おやすみなさい」と言って床に就き、そのまま朝になったら死んでいた、というのが良いです。
    死んだあとは、ドーバー海峡か、イギリスの田舎の平原に散骨して欲しいと、娘には話しています。
    イギリスが好きなので、死に場所もイギリスの何処かの田舎が良いなあ~。
     ●十傳より→いまからイギリスのどこで死ぬのか、現地で探しておかないといけませんね。

  10. 「すっごく楽しかったな。幸せだったな。」死を迎えたときそう思えていればいいなって思います。92歳で亡くなった祖母は、医者にも行かず、薬も飲んでいませんでした。亡くなった当日は、3時のおやつを食べ、夕飯の時間に呼びに行ったときには亡くなっていたそうです。会うたびに眠るようにすっと逝きたい・・・。そう口にしていた通りの死に方だったと思います。死に方は、大往生で理想的だと思いました。 けど私は、ばばは幸せだったかな?、楽しい人生だったかな?さみしくなかったかな? って今でも
    思う時があります。
     ●十傳より→生まれたとき無条件に祝うように、死んだ人は幸せだった、いろいろあったけどさ、と送ってあげるしか仕方ないのであります。「生を諦め死をあきらめるは、これ仏家一大の因縁なり」とは道元の言葉でござんす。

  11. 先生こんばんは。
    初めてこちらに書き込みします。
    この話題、興味があります。
    私はずっと思ってる人の最期を看取ってから、
    自分の生まれた場所に戻って誰にも知られずに静かに逝きたいですね。
    でも、その前に、その人にもっと「知って」もらわないといけないから、まだ死ねない・・・
    生きるってそういうことなのかな。今思いました。
    ●十傳より→少し前のコメントに対する返事にも書きましたけれど、人は、求められ必要とされることが幸せのモトだとおもいます。好きな人をよく知り、理解してもらうこと以上の幸せはないかもです。自分の存在はそれで満たされる…生きているってのはコレではないかとも思われるのでごさいます。