2011
06.19

忘れないうちに平安京遷都について語りたいとおもうのであります。

右画像は、784年の平城京から長岡京へ移ったときの奇門遁甲、年盤です。
都を移す場合は年盤を使用するのであります。
奇門遁甲には、年盤、月盤、日盤、時盤と四つの盤があり、それぞれ使用目的によって使い方は様々。

長岡京は北の方位です。
「甲甲」と並ぶのは「双木成林」という高貴な配置であります。皇位回復にはまさにぴったり。
甲、乙、丙を三奇といい三貴に通じますです。なかでも「甲」は高貴な意味。
「双木成林」で他の星も大吉の配合はなかなか巡ってくるモノではありません。
占い師というか、陰陽師たちは、この大吉方位を見つけた瞬間に、遷都は北以外にはあるまいと狂喜したことでありましょう。

が、10年後の794年後の北東の方位も「甲甲」の「双木成林」の方位のあることに気づいたのは、どんな陰陽師だったのか。

このように同じような方位が短期間で重なることはまずないことです。

二つの「双木成林」の方位を得て、桓武天皇は、長岡京を経ても最終的に京都に都を移すことを決めたのかもしれませんです。長岡京から京都は北東に位置しているのであります。

これが吉方位の方違えであります。

ここで、794年の北の方位が「乙乙」ということも注目に値するのであります。
乙は安定を意味します。とくに、この盤だと「休」の漢字があります。これは「休門」であり、平和などを意味が込められております。

じつは、長岡京から北東の線を引きますと、驚くべきことに平安京の大極殿を真っ二つに貫くのであります。
つまり平安京は長岡京から見て、北と北東のふたつの大吉方位にまたがっているわけでありますです。

逆に申しますと、この二つの方位による吉作用を大極殿にもたらすには、その起点を長岡京に持ってこなければならなかったのであります。
左様ーー、はじめから長岡京は通過地点としての都だったわけであります。最終的に京都のあの場所に都を移すことは、平城京で決められていたことであった…と確信できるのであります。

前回の局数で遷都の時期を決めたことといい、今回の方位のことといい、緻密であります。オヤジが金持ちでなかったら、なんの才もない鳩山とは大きな違い。民主党が第一党になったときの「明治維新につぐ……」などと舞いあがって無知な汗顔の発言をしていた由紀夫のことが痛々しく思い出されるのであります。

とにかくも、奇門遁甲の奥義を駆使し平安京遷都は実行されたのであります。

でも、なぜあの場所だったのか。
長岡京から北東の線は日本海まで続くわけで、なぜ夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする環境としては問題の多い京都に遷都したのか。
それは次回にまわすことにいたしますです。

2011
06.18

たまにはアカデミックな内容も、ということで、研究などしていますヤツを、ちらっとお見せいたしますです。

奇門遁甲で読み解く日本史であります。

784年、桓武天皇は都を奈良の平城京から、長岡京に移しました。
そして10年後の794年に突如として、こんどは京都の平安京に遷都したのであります。

今回のテーマはコレであります。
このあいつぐ2回の遷都は歴史上の謎とされておりますです。
水陸交通の便、渡来人秦氏の財力、仏教勢力の切り離し、怨霊出現…など、いろいろと遷都の理由を学者どもは挙げていますが、どれも決定打にかけておるようであります。

これは方位でいう「方違え」なのでありますが、これは後日述べるとします。
まずは遷都の786年に注目いたしましょう。

奇門遁甲では604年の甲子年から60年間を上元としています。
60年ごとに中元、下元と数えるのです。180年で一巡し、ふたたび上元の一局に戻るのであります。
長岡京遷都の786年は、604年から勘定しぴたりと180年後であります。
ちなみに604年とは聖徳太子が17条憲法を出した年。ほれほれこういうことと暦をリンクさせて読むことが肝心なのであります。
また604年は推古天皇が二年前の推古10年に輸入していた暦を公にした年でもあります。上元一局の甲子年というのは、それほど重要な意味があるのでありますです。
これらは日本書紀の記録であります。一説には日本書紀は虚偽文書だといわれていますが、たとえ、日本書紀による記録が虚偽だとしても、いや虚偽ならばそれだけに、やはり上元一局甲子年を意識していた証拠になるのであります。

ときの占い師どもは、こういう暦の計算には神経質だったに違いないのであります。
とりあえず786年は遷都のチャンスなのだと天皇なんかに進言していたんでしょう。
そして時代は長く続いた天武天皇の系列がおわり、天智天皇の系列にもどり桓武天皇の時代になっているわけです。
話はそれますけれど、
暦の計算といえば、占い師たちは明治維新を1861年と読んでいたのではないかと思うのであります。明治元年が1867年ですから、計画から6年遅れたのであります。

それは、60年を一元として上元中元下元の180年でひとめぐりの周期のほかに、21元を一蔀(いちぼ)とする大きな周期があるのであります。
それを照合いたしますと、1861年というのは神武天皇が即位した日本史上記念すべき辛酉の年から二蔀くだった年なのであります。

いずれにせよ、遷都など日本史を解き明かすには占いを吟味することが大切かもしれません。最近の占いである気学やカンタン風水などはべつとして、次回は奇門遁甲という古い占いを頼りに、なぜ京都に遷都したかについて論じてみたいと思うのであります。

2011
06.17

焼酎を買いに裏通りを自転車で走ったのであります。
途中で出そうと封筒をもっていました。

このようないにしえ調のレトロなポストを見かけました。
しかし封書は請求書であります。
本当に郵便配達員が扱っているのか疑ってしまいました。
ただの飾りとして設置しているにすぎないポストではないかと。

いぜん私に語ってくれた、占いの師匠の言葉を思い出しました。
「六十歳過ぎの者の話をまともに聞いてはいけない。人間は六十を過ぎるともうボケがきている。だから還暦というのである」
ポストを見ているうちに、その言葉がおもいだされたのであります。

六十歳をすぎなくても、人間には現役をリタイヤする時期というものがあるように思えるのであります。
生活のために働くのは仕方ないとして、大きな目標を掲げるのは老人としては滑稽というか醜いような気もいたしますです。

なかには年をとっても「まだまだ現役」とか「これから青春!」と張り切る人、とくにオバさんに多くみられる現象で、私のように老人を決め込んでいると、背中をどやしてくる方々であります。
そういう風景も、ずっと以前にどこかで見た老人会の風景であります。
老人の性とはまた別の問題として、五十にもなったら枯れることを考えなければなりますまい。
五十にもなって若づくりすることは考えモノ。

などとポストを眺めつつ思索するのでありました。
そして投函するポストは、やはりもっと新しいポストにすることにして、老僕のポストを後にしたのであります。

その数分後、せっかく買った高級焼酎を路上に落として割ることなど、この時には思いもよらぬことなのでありました。