2013
09.14

郷里の湖畔は落ち葉が舞っておりました。
しやわせな落ち葉でございます。

生きること、ただそれだけのことが幸せなのである、という説が少し前まで当然のように広まっておりましたけれど、想い出を語り交わす相手が見当たらぬほど長生きすることは、もはや不幸の範疇にあるのであります。

「死なないで…」
と愛する者の生を祈ることは、自分が一人ぼっちになりたくない祈りかもしれず、それはそれでイイのでありますが、郷里の秋にふれると、死ということを見つめてしまうのでありました。

モリオカには知らぬうちに中国や朝鮮の方々が増えていることに驚き、花巻空港では台湾との直行便を前向きに検討中とか。
昨夜の飲み屋で、中国の方々がネロネロしたお国ことばで大騒ぎしておりましたから、注意を促したのであります。
10人対一人でありますから、これはイジメにはなりませぬ。

一人一人がそうやって外側の生き物に対処する用心深さを持つことも必要かもしれませぬ。

そして、朝からドラマという嘘をみては感動することもイイことかどうか。
「あまちゃん」とかいう岩手県を小ばかにした朝ドラには困ったものでありますです。
それに踊らされるモリオカ在住の人々には、やはり明治橋の向こうに転居していただくほかございませぬ。

明治橋の向こうは、むかしは処刑場などがあり、いまでも地相は芳しくございませぬ。
ふしだらな娘たちが量産されている場所でもございますれば、「どこ住んでるの?」と聞き、「飯岡の方」と返ってくれば、男たちは内心ニタリなのであります。
方位もそうでありますが、暮らしている地相は、人間の性情を作るものであります。

が、まだ私メの実家付近はかろうじて守られており、故人たちを偲ぶかのようにコスモスが朝露に揺れているのでございます。

「あんや、いつから古くせ人になったんだえん」
と老母は納豆ご飯を食うのでありました。
私メも無言で味噌汁をすするのでありました。ロメオやジョルノ、ナッツに接するのと同様、過度な郷土愛を恥じながら。

願わくば、私メもはやめの落ち葉にならんことを。