2013
03.19

日差しが花を咲かせるのか、春の花々がいっきに目覚めたのでありますです。
道の両脇は、いまや花の宴。

咲かねば損をするとでもいうように、咲き急いであるのでありますです。

運命学的には、人それぞれ開花の時というものがございます。
20代で咲く人、10代のうちから満開になり、さびしい30代を送る人。
40代になってから絢爛と咲くお方もおりますです。

そういう花々に、聖書の「伝道の書」などはなぜかとても似合うのであります。
「伝道の書」とは絶望的な内容がちりばめられ、華々しい花の宴には、ちょうど良いバランスの取れた書でございますです。

「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」で始まり、「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く」

ね、まるで東洋哲学の如くなのでありますです。

で最後は、
「わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」
で締めくくられておるのであります。

神を「運命」と置き換えるとなかなかのものでありますです。

春の日に、暗い古本屋の奥で、美人のおかみさんと会話をしているような、妙にエロチックな雰囲気が「伝道の書」にはビルトインされているようでございますです。

花々は何も知らずに咲くのでありましょう。
そこから運命だの濁情だのを思想するのが人間というわけであるのでありましょうね。

が、花に誘われて宵の園を歩くのは、ひどく贅沢な感じがいたしますです。

蕾や、開花したてのみずみずしい花の匂いが、夜の闇にのって、そこはかと漂うのは、はやり男と女の心をせかせてもいたし方のないことでございます。

「私のことも見て!」

振り返りましたらば、花の終わった梅の木に一輪だけ梅の花が咲いているではありませんか。
みんな瞑ったあとで、一人の美少女が誕生したような感じでございます。

ああ、おいで、と手を差し伸べたくなるような桃色の花でありました。
「私は行けません。この木から離れられないから」
なんてことを言ってくれたら最高でありましょう。

咲き終わったのか、これから開花の時を迎えるのか、それが分からないことが人間の悩みでありましょう。
でも今宵は、
悩みをわすれて、「伝道の書」を小脇に抱え、花見をいたしましょう。