2018
10.13

たとえば、秋の花のように慎ましく、あるいは、冬の到来までの淋しいにぎわいをえんじるかのよーに、それとも、晩恋のごとく自分を戒めながら咲く花々が、神楽坂のそこここを彩っているのでございます。

いつもより早めに事務所に着き、缶コーヒーを片手にぶらついたのでありました。

春や夏の花の派手さはございません。
鮮やかさがむしろ哀しみを歌っているのでございます。

易者をして、ずいぶんたちますです。当初は1960年代生まれの女子高生を占ってきましたが、現在は2000年代生まれのお女性たちもちらほらと見えるのでありました。

と、すると当初のあの頃の女子高生はお母さん世代になっているのでありましょうか。よもやお婆ちゃんということでは…いやいや否定はできませぬ。

人もそれぞれ花咲く年代というものがございます。
たとえ晩恋でも咲けば花であり、咲けばむしり取る男が現れるのであります。

摘み取り、剥いて、丸裸にしてもてあそび、それは春や夏の花と同じ宿命を帯びるのは避けられませぬ。

ただ冬を目前にした花は、実をつけることは難しいかもしれませぬ。

けれど、花として咲いて、花として枯れることは、たとえ後悔したとしても、後悔しないことよりは納得することでありましょう。

事務所に戻りました。部屋の空気を入れ替え、机を拭き、そーして受講生を待つ奇妙なひととき。

「私メは何をしているのだろう」
と考えたいのであります。

私メは自分自身のことを考えることは、もう終わってしまっているのではないのか、とも思うのであります。

いまだ花を咲かせられない多くの相談者のために、花を咲かせるための方法として占いからのアプローチを、受講生のみなさんに伝授しているわけでして、
「お女性だけがタノシミというわけか」
と、ふと我が身をかえりみたりするのでありました。

年代はさらに新しい人々へと変わるでありましょう。が、しかし人の悩みの根本はほとんど変わることはございません。
占いが受け継がれたきた理由が、そこにあるのでありましょう。