09.24
墓参りは、いつも遠くの墓地からスタートいたします。
決めたわけではないのですが、そーいう習慣になっているのであります。
今回のお彼岸から私メ一人での墓参りとなるのであります。
モリオカ市内からクルマで一時間。
荒れ果てた墓地なのであります。
そして、そこには外戚の伯父が瞑っているのでありました。
もう50年前になります。
死因は酒の飲み過ぎによる栄養。
ベッドで酸素マスクをセットされながらも、人差し指と中指をそろえてタバコを吸う仕草で、タバコをくれと求めるのでありました。
だからロウソクの代わりに火をつけたタバコを供するのでございます。
さて、その墓石には、お盆のときに立てたタバコがそのまま、枯れ果てた供花とともに残っていたのでございます。
その墓地には水道設備もございません。
家から持ってきた、水を入れたペットボトルが必需品なのです。
枯れた花を取り換えよーとして、
「ギョッ!」
としました。
枯れた花の茎に、新芽が出ていることを発見したのでございます。
奇跡か…。
なにか強いものに打たれた気がいたしました。
シーンとした無人の墓地でございます。
奇跡というものは、いつもこーして絶えず起こっているのだ。
それに気が付くか、なのだ。
旧約聖書のイザヤ書に、枯れ木に花が咲くというヤッが書かれていた気がいたしますが、だからと言って「おお神よ」と十字を切るまでもなく、しかし、奇跡とは、発見できるかどうなのかではないかと思ったりいたしました。
自分の求める都合の良い奇跡は起きず、どーでもよい奇跡を見つけたところで、
「こんな奇跡ではなくて」
捨て置きたくなるもので、奇跡を奇跡と認めることすらしないでしょー。
が、墓地という滅んだ者たちを埋葬する忌むべき場で、あらたな命の息吹を見つけるということは、ダブルの奇跡かもしれません。
なにやら啓示めいてまいりました。