2013
01.22

易の考え方の中に、少陽というものがございます。
この世が、陽と陰に分かれ、その陰はさらに老陽と少陽に分かれるのでありますですが、その少陽でございます。

完全な陰ではなく、陰の中に陽の兆しが芽吹いているっつうわけであります。

失恋して、絶望のあまり相手を逆恨みして取り乱し、その取り乱した自分に自己嫌悪してやつれ果てるのでありますが、しかし、負け惜しみではなく、失恋は、次なる出逢いの準備ということにも似ておりますです。

近所の梅の枝に、ほら、梅の蕾がむずがゆく色づいているではありませぬか。
冬が到来したと思っていましたが、すでに冬は去ろうとしているようであります。
次の季節を木々は待ちうけているのでしょうか。

私メも、今年から十傳スクールなるものを始めました。
これまでは原稿の依頼を待つ、いわば受け身の仕事のスタイルでありましたが、ちと自分から主体的に働いてみたいという気持ちが昨年の夏場からスパークしたのであります。
そうなると濁情などどーでもよくなり、幾人かの、お女性たちから「冷酷」という捨て台詞を浴びましたが、まさか「ちょうど、お掃除しようとしていました」などとは、たとえ思っていてもいえませぬ。

テキスト作りや、自身もお勉強の総復習をしておりましたです。
昨年のG1が的中したのは、その真摯な姿勢の結果ではあるまいかなどと自負しているのであります。

そしてスクールが今年に開講。
これも兆しの結果であり、その結果もまた、つぎの兆しとなるわけであります。

遠い兆しを、光とするためには、周囲やお相手からの罵詈雑言を覚悟しなければならないようであります。
「以前、あんなことを言われた」
「あなたに傷つけられた」
「だからこうなった」
などなど。

傷つかない恋などありませぬ。
傷を楽しむのが濁情でございます。
濁情に自爆して、傷つけられたと文句を言うのは、ほんとうに愛していなかった証拠であるという意味のことを、AKBも歌っておりますですね。男の作詞なのでありましょうけど。

春の兆し、新しい濁情の兆し、希望の兆し、金運の兆し。
なかなか楽しくなりそうでありますですよ。
一寸先は光ということもございますれば。