2025
10.15

岩手県の、岩手山と姫神山は、その昔、夫婦だったという伝説がございます。それが喧嘩別れしたために、岩手山が見える日には姫神山には雲がかかっていると、岩手山に雲で見えない時には、姫神山が見えるとか。

私メはそーやって育ってきました。

が、近年、岩手山も姫神山も両方が見える日が多いのであります。
県民は「仲直りしたんだね」と。

けれども、なんとも不気味な景色に、私メの目には映るのであります。

熊の害、つまり街中に熊が出現するのは、この現象と関係あるのではないかと思うのであります。
つまり、宅地造成とか高速道路などで、野生動物の棲家を遮断したためではないかと。
かつて、日本には修験道があり、修験者は本州の北から南まで森の中を行き来していたのであります。

ところが今は森が寸断され、修験者はともかくとして、野生動物が自由に行き来出来なくなってしまったのでは、と。

森の風水が建築会社などのせいでズタズタにされ、その影響が、岩手山と姫神山が同時に見えるような土地の天候にも地理風水的に表れているのでは、と。

両山が仲直りするどころか、睨みあっているよーに感じられるのであります。

「ヤバイ何かが起きても面白いかも」
熊の被害は、その前兆かもしれませんです。

2025
10.14

老人が、若い奴ら用のバイクや革ジャンを、食い入るよーに眺めておりました。

年老いて良いことなど一つもございません。
目も耳も弱まり、もはや高い山に登ることすら恐ろしいのであります。体力や筋力の問題ではなく、筋骨自体が老体化しているのであります。

しかし、老いを嘆くことは無駄。
嘆いたとて、どーしよーもないからであります。

で、ふと振り返ったとき、若かりし頃に思う描いていた人生の夢と、現実とが、あまりにかけ離れているケースが多く、私メも、まさか易者に成り下がっていよーとは思いもよらぬことであります。

では、人生にどんな夢を描いていたのか。

受験の季節が始まっております。
事務所にも受験対策の相談が多くなりましたです。

希望する高校や大学に入学させるために色々な占術を用いるのですが、「この若い人の進むべき方向性は違っているのではないか」と首を傾げたり、「生年月日が示す方向性とは真逆なのに」と残念に感じることも多々あるのであります。

そーです。
本人の夢が、かならずしも命式の求める生き方ではない場合が多いのであります。

老体になってから、それらが軽く疼くのであります。
「こんなものだろう」と納得すればよし。
「どーうしてこういう人生になってしまったのか」と後悔するのは悲しい。

運命と夢は別物のケースがほとんどなのであります。

中年になって「お金だけで良いから望みをかなえてもらいたい」と依頼され、たとえば奇門遁甲を使ったとしても、お金儲けの道を歩んでいなければ、望みは煙と化すのであります。

2025
10.13

そろそろではないかと思い、涼しくもなったし、
「ちょうど良い」
遺影を撮ってもらいに写真館の扉を開けたのでした。

死んだとき、葬儀屋の係の人がテキパキと、適当な写真を加工して、遺影にしていたことを思い出すのであります。
「それじゃなく…」
と制御しても、では「どれを?」
しかし、見つからず、まぁいいかと任せしまう過去をいくつか知っておりますです。

祖父も、祖母も、また父も、心ならずの遺影となってしまったことを思い出しました。

心ならずは、遺族の受け止め方ではございますが、本人にとっても、「粗末にされてしまった」感は、きっとあるはずでございます。

で、写真館では、「ポーズを決めますから」と注文し、たとえば画像のごときポーズをとったのでありました。

遺族がなにかで困った時、私メの遺影をみて、「甘えてはいられない」とか「そーだ、アレがあるぞ」などと勇気とヒントを得られるよーなイメージなのであります。

ギャンブル誌用に、かつてカメラマンに何枚も撮られた撮影の頃を思い出しました。
たとえば、中山競馬場で、たとえばロトの抽選会場で、たとえば出版社の地下の倉庫で、たとえば事務所の書籍を後ろにした腕組みのポーズで。

死んだ後もこの世に存在したい未練はございませんが、へなちょこの写真を残されたのでは浮かばれません。
と、言うか、へなちょこ写真のために何十年も生きてきたというのでは死にきれないのであります。

撮影を終えた写真館をあとにした私メは、魂を抜かれたよーに、茅ケ崎の街をふらふらした足取りで自宅への道を歩いたのでございました。