2013
07.27

あそこはどーなったんだろう。
と、ふと思い出した場所がございました。

30年以上も前に閉鎖となった競馬場であります。
実家から自転車で10分という近距離の競馬場をいままで失念しておりました。

舗装されていたのであります。
かつてここを無名の駄馬が駆け抜け、小学生であった私メは、馬が近づくと癇癪玉や2B弾で脅かしたものでございます。

何度かつかまって大目玉を喰らいましたけれど、そのスリルの楽しさはやめられるものではございませんでした。

舗装は途中で切れ、昔ながらのコースの名残りが水溜りの道として残っておりました。

しやわせとは過去にあるモノ。
とどこかの雑誌で読んだ記憶がございます。

いにしえの歓声が聞こえるような気がするといえば、それはまったくございませぬ。
農道のような道が続くばかりでありました。

輪廻転生のように、楕円の競馬場は、どのような道であっても、ふたたびスタート地点に戻るのであります。

しかし、道は寸断され、工事関係者の事務所が忽然と現れたのであります。

高校生のときなら恰好な不純な恋愛スポットとして活用したものを…と、どことなく惜しいような悔しい気持ちにさせられるのでありました。

「こんなとごでやっちゃうのやんたよ」
と、おスケベのときだけ、地元のヤンキーちゃんは「ちゃった」とか「ちゃって」と関東言葉を織り交ぜるのが習性だったなぁなどと、これまた不意に思い出されたのでありました。

いかに都会モードにもっていけるかが勝負の分かれ目でありました。

この掘立小屋は、夜にはぞくぞくするほどの刺激的なスポットとなったことでありましょう。

この看板がなければ、ここが以前は競馬場だったとは、ほとんどのお方は気づかないはずであります。
「オノさんと彼女が付き合っていたんだって?」
と、何十年もたってから、何かの拍子に言われ、それまで自分も忘れてしまっていたかのようにであります。

アルバムを開いても、付き合っていたという形跡はなく、手紙をもらったとしても、いつかの時点で破り捨てていたことでしょうから、「そんなことはない」と否定すれば、それで消えてしまう恋の想い出のように、競馬新聞の看板は通行人の意識に触れないまま、そこに存在していたのでありました。

これが郷里の二日目の朝の散歩でありました。

2013
07.26

雨の中を新幹線は北へと走るのでした。

東北新幹線、秋田こまちは八割の確率で、隣に誰も座りませんです。
なのでグリーンを使うよりも、ずっとお得。

しかし、今回は、前の座席のおっさんの煙草の口臭が後ろの座席になびいてたまりませんでした。
そのおっさんは、お喋りなお方でして、仙台まで降りるまで、断続的に臭ってくるのでございました。

しかし、張りつめていた神経が、北へ北へとつっこんでいくに比例して、ほどけていくのが分かるのでございました。

以前は深夜の11時に出る「岩手三号」という急行に飛び乗り、翌朝の8時15分あたりに「モリオガー、モリオガー」と連呼するアナウンスに起こされたものであります。
するとそこは一面の銀世界で、雪がしんしんと降っていたのであります。
しかし、いまは夏。
そして新幹線。
わずか2時間30分の帰省でございます。

何はともあれ、ホヤ貝を買わねばなりませぬ。
三陸モノは震災後はとれず、これは青森産。
やや、サッパリ味でございます。
「おなかが空いたときはスパゲティで我慢するものよ」
どこぞの映画のセリフでありますが、背に腹はかえられませぬ。
海のオッパイ…ではなくパイナップル。
「んだは、こっちで暮らせばいがえんちゃ」
と老母は言うのであります。
「もうじぎ、三陸産のホヤもでるがら」
「あと6年したらね」
と答えるのでありました。

先日、ボケの最中に、うっかりと、しなくてもいい契約をしたために、引退時期が繰り延べられてしまったのでございます。
講習やセミナーの皆様には見せていない赤鬼の顔で、勧誘員を怒鳴りつけたのですが、後の祭り。
ま、フフフ、奇門遁甲の実験台になってもらう腹づもりでございますです。

「やさしい気持ちにならねば…」
と老母の心配そうなお顔を眺めつつ、久しぶりのホヤを賞味するのでありました。

デローンと気持ちがくつろぐ美味でございすます。
「夏はホヤだなぁ」
と心はみるみるなごみのモード。

弱り果てたハートが、ドクン。
股間もズクン。
ドクン、ズグン、ドクン、ドクン、ズグン、ズクン、スグンと脈うってくるではありませぬか。

「ああ、誰かを傷つけたい!」
というところまで回復するのですから、ホヤの効果は素晴らしいのでございますです。

鳥の手羽を煮込み、冷やした煮汁に、うどんをぶち込んですすれば、体力は45歳…いや49歳かな。

「なぬー、あの卑怯面の前復興大臣の平野達夫が選挙で当選しただと!」
と、岩手県の前途を憂うほどまで復活。

あとは大通りの歓楽街で、
「モリオカのクソども、全員、明治橋の向こうまですっこんでしまえ!」
などと泥酔の雄たけびを放てば完了するのでございます。

翌朝、のどの痛みで羞恥とともに、前夜の乱行のこま切れを思い出そうともであります。

明治橋の向こうというのは、刑場や遊女宿のあったところでして、いまは住宅街。
「すっこんでろ!」
と叫ばれても、ダレ一人、その意味を理解してくれるお方はおりませぬのです。
たとえ、そこはエタ非人の部落だと意味を知るお人も、
「モリオガにすんでね、あんたに言われたぐねぇ」
などと反論する程度。
「住んでねくても、モリオカはオレのものだおん、オレだげのものなんだおん!」

…十傳会員もずいぶん増えまして、日々のメールのシステムのグレードを上げなければなりませぬ。
しかしモリオカでの私メの発狂は、知らぬうちに伝播しているのでありましょうか。
地元の会員はわずかに1名。

高校の頃も地元住民に嫌悪されておりましたけれど、今も変わりませぬ。
海に毒をまいて、ホヤを食わせねぞ、ハ。

2013
07.25

午後3時前に原稿の仕事が終わりました。
なんともいえないイイ気持ちであります。

雨上がりの路地には、ちいさな花が何かを求めるように背伸びしているのでありました。

原稿はわずかに17枚程度なのでありますが、内容が、「奇問遁甲で読み解く日本史」のような感じなので手抜きは許されず、したがって時間と神経を要する作業なのでありました。

60年周期で上元中元下元で計180年一巡りという先日のブログは個人的にも反響がありましたが、原稿もそのお話でありますです。

明治元年が1868年でこれが戊辰年で、調べたら上元でありました。なのでひと巡りするのは、2044年という勘定であります。
新政府の計画では明治維新は1864年の甲子の上元の一局にしたかったのでありましょうね。

アゲハの幼虫がミカンの葉をムヒムヒと食っているのであります。あと3回ほど脱皮し、サナギになり蝶に化身し、交尾し、そしてタマゴを葉裏に産みつけるのでありましょうか。
それとも、鳥についばまれてしまうのか。

蝶にも鳥にも歴史はなく、歴史は人間のみの妄想なのでございましょう。

しかし、大多数の方々も歴史に記されることなく、蝶のようにケダモノの一生を楽しむことになるのでございますです。

いささか草花に発情しているのかもしれませぬ。

勤王側は、1861年の辛酉年をスタートにしたかったでありましょう。
辛酉年は革命の年というだけではありませぬ。
これについてはムーの本紙をご覧くださいまし。

ゆっくりと仕事の頭がときほぐれ、代わりにお女性の匂いを懐かしく感じたりするのでありました。
濡れた葉に咲く花を眺めていると、お女性の感触が中指によみがえるのでございますです。

けれど、しばらくは、この快い午後のひとときと戯れたいのでありました。