2013
07.09

夏祭りが近いのであります。

遠い響きが、夏祭りという言葉に宿っている気がいたします。

「うち、ずっと待っとるし」

すっぽかしたおデートというものは、すっぽかした復讐なのか、すでに40年も経つのに、その声が聞こえたりするのであります。
「行けない」
と答えれば、ソレで済むのに、そえいうシメの言葉を告げることのできない習性が、男にはあるようでございます。

「さよなら」
と告げたこともございません。

あいまいのまま時間に解決をゆだねるつもりだったのでしょうか。

いいえ、わずかなお金を入れたまま、貯金通帳の口座を打ち切らずにしておき、いつか使うかもしれないというような、ケチな心がないとは言えません。
そして、
「元気にしてる?」
などと深酔いの深夜に気まぐれに、飲み屋から電話する余地を残そうとしていたのかもしれませんです。

「うち、ずっとずっと待っとるよ、ほんまよ」
祇園祭の宵々山の、押小路の喫茶店で、私メは、ややうんざりして向いの土塀を眺めていたのでありました。

現在でこそ、時間にバカに正確でありますが、当時は2時間ほどの遅刻など何とも思っていませんでした。
待っているなら良し、待っていなくても良し。
そんな信じられないポーズを決め込んでいたようなのでありました。

私メは、じつは一人のお女性を待ち続けていたようでありました。
アパートの外付けの階段を鳴らして駆けあがって来はしないかと、サンダルの音がするたびに待っていたようでありました。
来ないことは分かっていたのですけれど。

「嫌いなら、キライって言うてくれてええんよ。蛇の生殺しだけはかなんさかい」

祇園祭のおデートをすっぽかされたお女性は、おそらく別の男に、私メがしたことと同じことをしたはずであります。
復讐は感染していくものでありますから。

祭りの日々の時代が、過ぎ去ると、男女の営みの機微が透けて見えてくるのであります。
誰も待たず、誰からも待たれぬ年齢となり果てたのでございます。
いまでは、メールをしても返事もしないメール人非人と言われているようでございますです。