2017
04.12

春の嵐に、桜の花びらが舗道に散りこぼれている光景は壮絶であります。

登山で、苦しんで登頂した下山の下り坂のようであります。
苦労して貯めたお金をオネえさまのお店で浪費しているようでもございますです。

「散る」ことを結末と考えるのか、新しいスタートだと認識するのかは、散った直後の本人に答えを求めるのは難しいかもしれませぬ。

「あんなことをしなければ」と恋が散ってから後悔しても無駄であり、「こんなことをすれば良かった」と夢想してもせんなきことでございます。

始まりがあれば終わりを迎えるのは仕方ない運命なのでございます。
変転こそ人生であり運命であるわけでして、たとえば十傳スクールだとて例外ではございませぬ。
「初等科を開始すれば終わるのに五年はかかる」などと開講する際に、私メはいつも考えるのであります。

あと何クールできるのであろうかと。

出逢いがあり、共鳴があり、手を握り、kissを交わし、そして音楽を奏で、たとえ燃え上がっても散りゆく運命から逃れることはできませぬ。
せめて美しくありたいと数々の失敗の経験から、ダイヤモンドのエッセンスだけを抽出しようとたくらみ、最後の恋を飾ろうと思ったりもいたします。
が、それだとて気まぐれな運命の春の嵐にあえばどーなるか。

せめて、いまこの瞬間を充実させねばならないのであります。

そして、散ることで始まることもあるのでありますから、たとえば演奏会が終了し、「帰りにお茶でものもうか」なんてことは散らなければ始まらないことなのであります。