2018
03.07

若山牧水の歌に
「海底に眼のない魚の 棲むといふ 眼の無き魚の 恋しかりけり」
というモノがございますです。

京王線の分倍河原の梅花を眺めていたとき、この歌を目にしたよーな。いやいや、別の場所だったかもしれませぬ。

断易の秘伝書に「海底眼」がございまして、そのために、なんとなく記憶しているのでありました。

失恋の歌かもしれませんですね、牧水のヤツは。
光の差さない暗く静かな海底のよーな、社会とは隔絶した場所に、自分も住み着きたいという、嫌世のしらべが聞こえますですが、そういう場所だとしても、それなりの面倒が発生するものでございましょう。

周囲を見たくないと目をつぶれば、自分の心の中の俗世に爛れることは避けられませぬ。

この世が、人と関係によってしか幸運も不運も得られないものであることは明らかでして、その人の世の細々が、断易という卜易のエッセンスにビルトインされているのだと悟ってしまえば、断易ほどいとおしい占いはなくなりますです。

四柱推命によって当人の運命の傾向や、陥りやすい地獄や、幸運の到来の時期を知り得ることは可能であります。そして奇門遁甲によって避凶だの趨吉を働かせるわけであります。
が、細々したことは、やはり断易。

断易のサイを振る時、眼のない魚を意識いたします。
すると、その卦に顕れている運命の現在位置と地形と気候が、眼のある魚の目を通すよりクッキリと見えることもございます。

ああ、汝の恋は満たされるけれど、もしも、焦った行動をすれば、卦に出ておらずとも、愛の強さゆえ、6月までの寿命となるだろうと。動いてはならぬ。たとえ彼の連絡が絶えようとも。愛は、自分との戦いなのだからと。

が、その忠告が守られることはございませぬ。
哀しい的中なのであります。