2024
04.12

多くの錯覚によって、我々は誤った判断をしておりますです。

たとえばお笑い芸人。
ひとつも面白くないのに笑ったりいたします。
鶴瓶とかサンマとかを見ていると、いや見ていませんが、見たとして、腹が立ち、アメリカと戦争をしたり朝鮮人をぶっ殺したくなる衝動に駆られるのはどーしてでしょう。
もしも旅番組でモリオカにきたら、バットで頭蓋骨が煎餅状になるまでぶん殴りたくなるのであります。
みなさんも心の中でそー思っているに違いありません。
思っていないと言うなら、自分を偽って生きていますです。

たとえば政治。
代議士の目的は汚職であることを忘れて大騒ぎいたします。
投票して世の中を変えることが正しいという妄想。
このままで良いのであります。

ちなみに私メは維新と名づくものをすべて虫唾が走るほど嫌っておりますです。まぁ好きなものは何もないのではありますが。

たとえば野球やサッカー。
スター選手の活躍をまるで自分のことのよーに興奮して観戦しますが、勝っても負けても自分の生活に反映することはございません。
だいたいにしてサッカーだの野球に夢中になっているものたちに一人も幸運なお方はおりませんです。
ただちに廃止する方向が正しいのであります。

たとえば物故記事。
著名な誰かが殺されたり死んだりいたしますが、自分とは無関係。外人力士が死んだとか新聞に出ていましたが、バカバカしてこと。バカ安倍が殺された時は二時間などの暇つぶしにはなりましたが。すがすがしかったですね。死んで惜しい人など一人も存在しないのであります。

すべての情報は幼稚な思考にさせる悪い薬であります。
また洗脳番組の朝ドラ。

必要な情報は天気予報のみ。

さて、
1日を通して、自分と自分の直接関係する人のためだけに精を出す時間はいかほどでしょーか。

あるいは、人の目。
こうしたらどー思われるかとか周囲の思惑をひどく気にしますが、他人はさほど意識するわけではなく、そんなことを気にしていたら何も行動できません。
友達など百害あって一利なし。
誰も愛していない、ただの欲望に過ぎないことを知るのであります。

さらに不倫したとか、派手な服を着たとか、家族が可愛そーだとか、そんな周囲の目は、すべて妄想にすぎません。
いちいちうるさいわけであります。
かってに自分の人生に入ってくることを許してはなりません。

あっという間に時は過ぎて、
「しまった!」
と気づいたときは臨終の床についていることになりますですぜ。

面白くもないものは面白くないと素直な気持ち。
不味いものは不味いと正直に自分に言いましょー。

自分の領域に他人を入り込ませないためにも愛想を制限する必要がございます。
スマホのラインなどは不幸になる原因ですから、これもいい加減にしなければなりません。

キャッシュレスは貧乏に向かう一本道。
便利だと感じることは、すべて「?」であります。

とにかく国で勧めることには背を向けて正解なのであります。

そして日本人であることを恥じましょー。もう恥じているか…それは無意識で。

切り捨ててしまえばスッキリ。
これが開運への一本道なのであります。

2024
04.11

先方から、約束どおり入金されるか否かを断易で占いました。

依頼者は事業家でして、その相手に対して微妙な違和感を覚えていると言うことなのであります。

出た卦は、天地否から天雷无妄。
典型的な、合処逢冲。
「最初は良くて、最後にダメになる」
これが、合処逢冲の定型的な解釈であります。

自分(〇印)と相手側(△印)は卯ー戌の合。
相手側は朱雀+父母で、書類が完成していることを、旺相の有気として語っています。ただし月破。
依頼者のカンのとおり、油断できない相手であります。

では何故なのか。
自分は、応爻よりもパワーが劣っているからであります。
自分は卯で日晨の戌と合しているのみ。
つまり、相手から軽く見られておるのであります。

合処逢冲の、土壇場でダメになるのはこの意味なのか。

いや、この卦を凝視いたしますと、子の子孫爻が、初爻に化出しております。
日月から剋されているよーに見えますが、申ー子ー辰の三合が形成され、自分の元神となって、卯の妻財を補強しております。これで相手との力量が釣り合うのであります。
誰か救いの神があらわれるに違いない。
聞けば病気で伏せっているが、心当たりがあるという。

「入金されます」
と断じました。

果たして入金アリの報せが届きましたです。

六冲卦の現象はどこに現れるのか。
タノシミであります。

2024
04.10

やはり4月8日のことであります。
道に迷いつつも降り出したあめのなか、どーにか茅ケ崎市役所に着いた私メは、住民票を取ろうとして、身分証明書の提示を求められたのでした。

そういうことになろうかと、モリオカの実家の鍵などを、ひとまとめしている皮の小バッグをとりだしました。なかに運転免許証が入っているからであります。

ところが、
「ない」
のであります。
定期入れに挟んでいたはずの運転免許証が。

小バッグには、いざという時のために5千円札が1枚入っております。それはちゃんとあるのであります。
だから盗まれたのではない。
だ、とすると…。

市役所では、私の口から、本人確認がなされたので、住民票は発行してくれました。

しかし、帰る道々、どーして運転免許証がないのかを考えました。
昨年まで、老母と銀行などに同行し、たまに親子であることを証明するために運転免許証を見せたことはございます。
が、老母を流刑地に追いやった8月以降は、そーいうこともなく。
再発行してもらうことになるのか、と面倒事が増えたことにいささかうんざりしました。

いや、それよりも自分の記憶の不確かさでございます。

自宅に戻り、お寺で振舞われたお酒の酔いと、自転車で彷徨った疲れがでて、ベッドに転がり、しばしウトウト。

とーー。
「コピーだ!」
ガバッと起き上がり、プリンターの蓋を開けました。
ありました、ありました。

1月の中旬に、郵便の関係で、コピーを取ったことが、仮寝の脳天に閃いたのでございます。

それにしても、1月からずっと免許証不携帯でクルマを運転していたとは。

老いたぞ、老いたぞ。
これからもどんどん老いるぞ~。